再出発日記

2022/02/04(金)21:01

分銅型土製品の顔について

考古学(162)

「顔の考古学」設楽博己 吉川弘文館 ※一度「パレオマニアの吉備国遺物の旅」で扱ったテーマではあるが、加筆訂正してもう一度出す。出来あることならば、専門家の意見を聞いてみたいほどの考察になったと自負している。 「池澤夏樹の旅地図」を読んだときに「パレオマニア」の取材方法を知った。少しそれを真似て、一つの遺物をめぐる小さな旅をした。よって、本書の感想は一部のみ。 久しぶりに古代吉備文化財センター(岡山市北区花尻1325-3)に行った。センターは吉備の中山の中腹にある。吉備の中山は、様々な古墳や弥生時代の磐座(いわくら)がある聖なる山だ。だからか、此処には神社で1番格式の高い一ノ宮も、日本で唯一ひと山に2ヶ所もある(吉備津神社、吉備津彦神社)し、新興宗教黒住教の総本山も此処にある。 何度も来ているので、選ぶ遺物の目処はついている。当然弥生時代。一つ選んで、それが出土した場所に行き、感じたことを書くのが「パレオマニア」のやり方だった。 選んだのは、吉備の国発祥で謎の多い「分銅型土製品」である。名前の由来は、江戸時代に使われた秤の重りに似ているためであり、分銅として使われたわけではない。これまでに中国・四国・近畿・北陸・九州から900点あまり出土して、そのうち4割が岡山県出土となっている。 私の一番好きなのは、最も最近(弥生時代後期)に作られた、ほとんど縄文時代の土偶のような「顔」のついた土の板だ。くびれがついた小判型。岡山市加茂政所(かもまんどころ)遺跡出土。上半分に表情のみの顔がつく。もうどう見ても、赤ちゃんの顔に見える。しかし、これを赤ちゃんの顔だという研究者はあまりいない。これは「顔」であるということでは意見は一致している。しかし、目が左右対称では無いことなど、つまらない所に注目している。「微笑んでいる」様に見えるのは、「のちに埴輪にも見受けられる『魔除けの効果』」〈辟邪〉を狙ったのだという見方もある。 ひとつ発見したのは、普通壊れた形で出てくるのが多いのに、これは完成形で出土したのである。近くから出土したほかの顔付き土製品(時代区分はほんの少しだけ赤ちゃん顔よりも古い)が無表情で、しかも壊れた形で出てきたのと何故か違う。分銅型土製品は、壊れた形で出てくることの方が「正常」なのである。真ん中のくびれで、二つに割れて出てくることが多い。また、まとまって出てくることはなく、住居跡から出土する。500年前のそれは顔さえなくて、抽象的な模様のついた分銅型土製品だった。なんらかの家ごとの宗教行為があったのに違いないと、私も思う。また、私の好きな赤ちゃん顔の土製品は、下がむしろ大きく、ホントの分銅型をしていて、いわゆる普通の分銅型土製品とは違うという指摘もある。弥生時代後期の最終時期の土器として何の意味があるのだろうか? 現在の研究では、子どもの枕元に置く魔除けではなく、上に飾り物を刺せる穴もあり、左右に通し穴もあることから、額につけて面のように使ったのでは無いか?という説もある様だ。赤ちゃん顔の土製品にも左右の穴はあったが、飾り物の穴はなかった。また、思ったよりも鼻は高くて、ちゃんと鼻の穴は二つある。くびれは小さい。よって最初から壊さないことを前提にして作ったということだろう。だとしたら、壊して魔物を他所に持っていく効果とは違う祭祀に変化したということだろう。しかし額には付けたのかもしれない。ときは弥生時代後期の中頃(AD150年ごろ?)。ここで何が起きたのか。 か^_^目的により、肝心なことは聞かない。資料の場所と出土場所のみ教えてもらった。発掘報告書は売り切れていて無かったが、その場でデジタルで見えるようになっていたので読ませてもらった。 出土場所に行ってみた。場所は、文化財センターから吉備津神社に降りて、180号線を西進し、山陽自動車道と交わるところである。その工事中に発見された遺跡なので、今は高速道路の下になっている。東側はすぐ緩やかな、ちょっと見、神南備山(かむなびやま)に近い形の山が迫り、北も山が近くにある。 西は足守川がながれ、南にはほとんど小森にしか見えないが、楯築(たてつき)遺跡の小山が見える。弥生時代最大級の墳丘墓にして、最も謎に満ちた弥生の王墓である。元気な子供が走れば30分ぐらいの距離と見た。吉備国中枢祭祀場から生活圏にある、津寺遺跡と併せてこの辺りは、まさしく吉備国の中央地区だった気がする。常に楯築の山を見ながらの生活だったのだ。 さて、やっと「顔の考古学 異形の精神史」(設楽博己・吉川弘文館)で言及されている分銅型土製品について述べる。少ししか書いていないので、全面的な考察ではないが、とりあえず最新研究は見ているようだ。土製品はずっと縄文時代と関係ないと言われてきたが、近畿の縄文時代晩期終末の長原式土偶が、近畿姫路市丁・柳ヶ瀬遺跡あるいは総社市真壁遺跡の前期土製品に繋がるのではないか?という研究を紹介している。これにより、縄文土偶が分銅型土製品につながる道が見えてきた。設楽さんは、特に土製品の「顔」の「笑い」の意味について、私と(少し違うが)似ている意見を持っていた。つまり、魔除けの効果(辟邪)を狙ったものではないとする意見である。何故ならば(1)顔があまりにも穏やかで微笑ましい。(2)魔除けの鯨面絵画資料が墓から出るのに対して、土製品は墓からでない。設楽さんは「女性をかたどり、柔和な笑顔をたたえている」「おそらくは出産にかかわる護符のような機能」を持っているのではないか?と考えを述べる。それを補強するもうひとつの要因として、土製品の顔には、一切鯨面(刺青)の表現がない。ナント!赤ちゃん土製品の出た加茂政所遺跡の数百メートル西の津寺遺跡の、しかも弥生時代後期から鯨面線刻土偶が出土しているのである(←知らなかった)。「入れ墨は男子の習慣」だと書いたは魏志倭人伝である。設楽さんは土製品を「女性」だと言うが、私は少なくとも、最終末期に作られた赤ちゃん土製品は「赤ちゃん」だったと思う。赤ちゃんにも入れ墨はもちろんないからだ。赤ちゃんだという根拠は、赤ちゃんの顔だからである。あどけない寝顔のような顔にしか見えないからである。だから、出産の時にも効果を発揮しているかもしれないが、それ以外の時にも効果があるかもしれないのである。 私は、やはり、子供を助けるための祭祀だったと思う。同時に子供が助ける祭祀だったのかも知れない。赤ちゃんは眠っている。夢を見ている。幸せな夢を見ている。安心しきっている。これまでも、これからも、病気も飢えも争いも憎しみもない空間が、この赤ちゃん土製品の周りにはあり、それを保証するだろう。集落で行われた豊作を祈る祭り(青銅器祭祀)が下火になるにつれて分銅型土製品も姿を消していった。家々での出土だったことを考えると、村の祭りを司る力は低下して、楯築の王の王国の強力な呪術の力が、人々の生活を守る様になっていったのかもしれない。150-180年に、この赤ちゃん土製品を使って家々で行われた或る秘儀の継承は必要なくなっていったのかもしれない。楯築王墓の儀式の成功の時、赤ちゃん土製品は、まるで家の御守りのように大事に家の隅に祀られていただろう。それは同時に全く新しい時代の曙光を意味する。弥生時代が終わろうとしていた。

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