ジージの南からの便り

2013/02/14(木)12:04

鹿児島清水城跡にあった大乗院

鹿児島清水城(9)

 私が現在受講中の「鹿児島清水城ガイド養成講座」の清水城は島津家第7代当主・島津元久により、1384~1387年に建てられた。それから14代勝久に至る当主が1550年まで使い、164年間にわたり島津家の本城だった。しかし、ここが手狭になり、15代貴久が内城を築く。その跡に1556年に建てられた寺が真言宗の大乗院である。そしてこの大乗院は島津氏縁の場所に建つ寺院として歴代の藩主の尊崇が厚く、現在の南さつま市坊津秋目にある一乗院と真言宗藩内首座を争った。 しかしそれが災いとなり、明治時代になって、1869年廃仏毀釈により、最初に破壊された寺になった。跡地には11世貫主・覚山の墓と門前の大乗院橋のみが残されていた。この大乗院橋は、天保13年(1842)肥後の石工・岩永三五郎作の屈指の名橋であったが、平成5年(1993)鹿児島を襲った大水害(8.水害)により流されてしまい、現在はコンクリート製の新しい橋が架けられている。流された橋は、近くの若宮公園に半分に縮小されて残されている。 大乗院跡にある清水中学校のプールの山側にその当時の磨崖仏が残されていることは、昨日紹介したが、同じく中学校の入り口を入ったところにもその遺跡が残されている。  鹿児島清水城平城(屋形)部、即ち大乗院跡地では、鹿児島市教育委員会による埋蔵文化財発掘調査がこれまで5回にわたり行われているが、この上水道の石管はその時、出土したものである。  また大乗院は現在の清水中の敷地のみならず、寺から向かって南に200mのところに正門(仁王門)があり、その間に10の支院が立ち並んでいた。  仁王門のあった場所は当時から湧水があり、現在も仁王堂水として残されている。私も高校時代ここは通学路に当たり、良くおいしい水を飲んだものだった。清水小学校の前である。 大乗院の10か所の支院跡は全て民家になっているが、仁王堂水から清水中学校に向かう右側の民家の入り口に「威光院跡」という看板が掲げられており、昔をしのぶことが出来る。      〈参考資料〉三木靖先生の「鹿児島市清水城ガイド養成講座」            ウィキペディア「大乗院(鹿児島市)」

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