ジージの南からの便り

2019/10/09(水)18:15

鹿児島城(鶴丸城)御楼門復元への歩み

島津一族(57)

 鹿児島城の御楼門復元については当ブログにおいて2015年3月24日、2017年5月5日など数回にわたり書いているが、今から一年6ヶ月前の2018年12月3日に現地説明会が開催された。 その日、所用があって説明会に行けなくて残念な思いをしていたが、御楼門部分への立入禁止が解禁されたのを知り行ってきた。  鹿児島城(鶴丸城)は島津家にとって東福寺城、清水城、内城、に続く四つ目の城であり、島津家18代当主で初代薩摩藩主・島津家久(義弘の3男)が、関ヶ原の戦い直後の慶長6年(1601)に築城を始め、慶長末(1615)ごろほぼ完成させたと言われる。この城の特徴は天守閣はない。 その後、8代藩主・島津重豪により二の丸の整備拡大が図られたが、明治4年の廃藩置県で12代藩主・島津忠義がここを去るまでの270年余り、島津家の居城として使われた。本丸は明治6年(1873)の火災で、二の丸は明治10年(1877)の西南戦争で焼失した。  蓮の花がチラホラと咲き始めたところだった。  今に残る西南戦争の銃弾や砲弾の痕跡 写真にあるように、御楼門部周辺の石垣には無数のくぼみが見られる。このくぼみから銃弾や砲弾が食い込んでいることが分かる。周辺の発掘調査により、これらの多くは明治10年(1877)の西南戦争によるものということがわかったという。熊本、宮崎での戦いに敗れた西郷軍は故郷・鹿児島の地に戻り、城山を中心に布陣し、最後の決戦に挑む。しかし、これに対する政府軍は約5万人とも言われ、西郷軍に無数の銃、砲弾を浴びせ圧倒した。これらの弾痕跡が日本で最後の内戦と言われた西南戦争の凄まじさを今に伝えている。  橋を渡った先の左右には昔の御楼門跡の礎石が掘り出されている。  御楼門跡の礎石には、門の柱に巻いた鉄板のサビ跡が残る。  今回の復元のこととは関係ないが、鹿児島医療センター側の石垣の隅は、角を切り取った形になっている。これは、城の北東に当たる「鬼門」とみなし、その災厄を除こうと考えられ、このような形にしたもので、「隅欠」と呼ばれる。

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