ジージの南からの便り

2018/11/06(火)14:49

鹿児島史談会の史跡探訪に参加した(その三)

鹿児島の歴史(323)

 次に行ったのは豊州島津家の御仮屋のあった黒木小学校。 豊州家は島津宗家8代島津久豊の三男、島津季久(すえひさ)によって始まった。季久が豊後守と称していたことからこの名がついた。初代の季久の代には鹿児島に近い帖佐を領していたが、2代の忠簾(ただかど)の代から日向飫肥に移る。飫肥に移ってからは度々日向伊東氏の攻撃を受け、5代忠親のときに飫肥の地を奪われてしまう。7代久賀以後は帖佐、黒木の地頭として島津宗家に仕え、家老などの養殖についた。  12代久起は円明院(祈願寺)及び永源寺(菩提寺)を黒木に移させた。なお、15代当主・久寳(ひさたか)は家老職に就いたが、島津斉興・お由羅の方側につき島津斉彬を排斥しようとしたため失脚した。(お由羅騒動)  祁答院町黒木郷の麓は、黒木小学校近辺の県道沿いにあった。しかし、近年の拡幅工事により、石垣を積み直し整備したため、往時の遺構はほとんど見られなくなったという。  黒木小学校の向かい側には石柱に「黒木村役場」と書かれたものが残されている。現在ここは「ふれあい広場」になっている。元は豊州島津家の祈願所であった「円明院」があった場所である。 円明院は、黒木役場の東側大地にあった。元々は現在の姶良市重富平松の岩剣神社前にあり、鹿児島大乗院の末寺であった。開山は大乗院三十一世尭法師で、本尊は虚空蔵菩薩であった。  豊州家第十二代久起は、円明院と永源寺を平松から黒木に移させた。寛保二年(1742)門前に一対の金剛明王像を建立した。  明治二年(1869)廃物希釈により廃寺となったので、仁王像は地中に埋められた。後年、この仁王像は掘り出され旧黒木役場入口に安置された。形が崩れていないのは土中に埋められていたためだろう。 像の背面には「奉造立金剛明王一口 寛保二壬戌成年四月良辰」と刻印がある。  阿像  吽像  もう一つの「永源寺跡」は黒木小学校の裏手にある。 永源寺は元帖佐の地に島津豊州家第二代忠簾が仲翁和尚を開山として創建し、のち飫肥・福島に転領したため、延徳2年(1490)永源寺も飫肥に移された。さらに第六代朝久は天正15年(1587)同寺を姶良町平松に移した。第七代久賀は寛政十一年(1634)黒木を領することになったが、永源寺は円明院とともに平松の地に残された。第十二代久起に至って、延亨元年(1744)同寺は黒木に移され明治に入った。本尊は釈迦如来で、豊州島津家の菩提寺として約380年護られてきた。  永源寺は明治二年(1869)の廃物希釈後廃寺となったが、最後の住職若松竹七により、明治四年(1871)寺跡に学館が解説され子弟の教育が行われた。翌五年(1872)に御仮屋跡の現小学校の位置に学館は移され、明治九年(1872)に御仮屋跡の現小学校の位置に移され、明治九年(1876)に黒木小学校になった。   参考資料 当日配布の冊子資料他

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