ジージの南からの便り

2022/02/15(火)08:39

米持参だった演奏旅行

男声合唱(87)

先日のブログ「私の『希望の島』(のぞみのしま)は馬毛島」を書くに当たり曖昧な記憶を確かめようと男声合唱団・フロイデ コールとそのOB会でつくる楠声会の記録誌や記念誌を取り出した。 余談だが、フロイデ コールでは、これまで周年などの度に記録誌や記念誌を発行してきたが、それに続くOBで組織する楠声会でも記念すべき演奏会や遠征した東京のイイノホールでの「歌声は日比谷の空に」東京公演記録誌、島原市での「普賢岳災害復興祈念チャリティーコンサート」記録誌、奄美での「うるわしき南の島に歌声響く」演奏会でも記念誌を発行してきた。  下の写真は昭和60年(1985)1月13日発行の「創立三十五周年記録誌」の10ページ目。 私が昭和56年に約20年の県外での生活を終えて帰ってきてから4年を経ていて、仕事にも目鼻がついてOBの楠声会にも参加し始めた頃である。このときの記念誌に過去の「演奏旅行の記録」を残そうということで第一回目と思われる昭和25年7月の伊作高校、花田小学校から記載が始まっている。記録誌によると昭和30年7月と9月までの演奏旅行のことは演奏した学校などが全て記録された一冊のノートが発見されたことで記録誌に転載できたと書かれている。  しかし、その後のことは何らかの記録に残されていたものと、そうでない年月のところには「残念ながら不明」と書かれている。そして、下の昭和32年から昭和34年の記録も「残念ながら不明」が幾つもある。このページの最後にある昭和34年9月も不明とある。私は33年入学の37年卒業なので、当時は2年生で詳細は覚えていないが、この演奏旅行には参加していた。  それから10年後、今後は転勤もない生活でそれまで転勤や転居の度に断捨離もできていたのが終の棲家に落ち着いた今後はもうそういう機会もないということで思い切って不要なものを捨てようということになった。当然その中には鹿児島を出てから鹿児島に帰るまで転居の度にずっと一緒だった「フロイデ時代の宝箱」(楽譜やプログラムなど)や北九州混声合唱団時代のものも段ボール一個に収まっている。  そしてある日、不要な楽譜などは捨てようと選別を始めた。鹿児島を出て鹿児島に帰り、この箱を開けるまで実に33年が経過してことになる。もちろん、北九州時代に所属した男声カルテット・フォーガイズのためにフロイデ時代の楽譜を取り出して歌ったりしたので玉手箱みたいに全然開けなかったわけではない。一枚一枚丁寧に引き剥がすようにして見ていったが、当時の楽譜はガリ版印刷で紙質も悪かったこともあり、変色したり折り目から切れかかっていたり、やっと楽譜も読めるようなものもあった。  めくるうちに遂にお宝の一枚を発見! (ちょっと興奮し過ぎてオーバーかな) 記録誌に「残念ながら不明」と書かれていた「昭和34年9月(大隅・都城、宮崎)」の演奏旅行日程表と「旅行メモ」の用紙が出てきたのだ。 喜んだ私は次の練習日に当時のN会長に届けた。そして平成7年7月15日付けで会員に35周年記念誌の空白を一つ埋める形で配布されたのだった。  これを見ると、9月1日から8日まで16ヶ所で演奏をし、途中、宮崎女子高(現在もコンクールで上位入賞の常連校)と合同練習をやったり青島にピクニックに行く予定になっていたが、ピクニックはやめて、女子高生とソフトボールをやったような気がする。しかし、60年前のことではっきりは覚えていない。  笑えるのは次の「旅行メモ」である。 自己負担金  300円。 (演奏先の謝礼金でまかないきれなかったのか)             当時の私の市電の月額定期券代が310円だった。 米      3升。  (私の計算では昼の弁当も含めて22食分ということになっているので              若者一人あたり一食1,36合くらいで妥当な量か)             当時は「米穀通帳」がなければ米が買えない時代だった。  その他、マネージャーから事細かい指示が出されていてあの時代を思い出して今見ると面白い。 これを見て演奏旅行の度毎に同じようなことをしてきたのだろうと思いしばし感慨にふけることだった。 演奏旅行のみならず、記念誌などを見ると、面白いエピソードが満載なのでまた機会があれば紹介したい。

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