ジージの南からの便り

2022/07/12(火)18:38

Tくん転職し、新しい職場へ

Tくんの物語(10)

昭和44年(1969)11月21日、新しい職場・M安全株式九州支店に初出勤した。場所は北九州市八幡西区前田町の3号線沿いにあった。なお、私が長崎に転勤した後、従来の支店から3号線の反対側200mくらい先に自前の土地・建物にして現在地に引っ越した。当時は目の前に八幡製鉄(株)の煙突が見える場所である。引っ越した後は、八幡製鐵所の西門の入り口の右側に位置する絶好の場所になった。それより前、昭和43年に八幡製鐵(株)と富士製鉄(株)の合併が発表されていたが、公取委の独占禁止法云々があり、両製鉄所が合併し新日本製鉄(株)となったのは、私が転職した翌年の昭和45年(1970)3月31日である。その後、2012年10月1日、住友金属を合併し新日鉄住金(株)となり、2019年4月1日、日本製鐵(株)に社名変更し現在に至っているようだ。  八幡製鐵所のことにこだわったのは、M安全(株)にとって大きな取引先であり、当時から八幡製鐵所に安全靴(上の写真にある、爪先に鋼板が入ったもので種類はたくさんある)を独占して納める納入業者だったからだ。八幡製鐵所への納入靴は特注で通常「ゥ0G]と呼んでいたが、革はウグイス色だった。もちろんその他の安全用品も数多く納めていた。  新入社員の私を入れても当時の支店の社員数は15名くらいだった。 支店長、次長、営業4人、業務2人、経理2人、倉庫1人、配送2人という布陣だったと思う。 私の初めての仕事は「業務係」である。支店長から「将来、支店の経理の仕事をやってもらうが、先ずは商品やお得意さんを覚えるように」ということで仕入れや電話応対、暇なときには倉庫に入って商品の勉強もすることになった。私自身、人間がいい加減なこともあり、銀行から全然雰囲気の違う職種・仕事であったが特別な違和感は無く、うまく溶け込めたように思う。 会社は昭和28年創業の若い企業だったが安全靴を日本で一番最初に作ったこともあり、当時から安全靴のシェアは日本一であり、安全靴の生産工場も持っていた。その他に作業服の縫製工場もあった。 その他、ヘルメット(後に自前の工場を持ち生産するようになる)、防塵マスク、防毒マスク、防塵メガネ、フェースシールド、耳栓、各種手袋、安全標識なだなどあらゆる安全用品を扱い、それぞれの有名メーカーの代理店として販売していた。それだけに商品知識を得ることや仕入れも多岐に渡るので、仕入先との交渉など大変だったが、仕事を楽しむことができた。  得意先は八幡製鐵所を始め、小倉の住友金属工業、それらの協力企業、戸畑、若松、門司の工場群、筑豊の炭鉱やセメント会社など工場と名のつく工場のほとんどと取引があった。しかし当時のことで重工業が主体であり、またそこが多くの安全衛生保護具を必要としていた時代でもあった。  九州支店には、後に九州支社も併設されるのだが、九州支店が日本を代表する重工業のお得意さんが多かったことや、当時九州にあった福岡出張所、長崎出張所、大牟田出張所、大分出張所のまとめ役の仕事もあって、常務取締役が支店長であった。当時は九州も含めて全国の販売網は50ヶ所くらいだった。 現在は180ヶ所になっている。 今日は固い話になってしまった。 ➇

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