神・天才・幻想
人々は私を天才と崇めた。のちに、私のことが書かれた本が出版された。生い立ちから今日に至るまでを事細かに書いた本だった。私は取材に付き合ってやっただけで、この本については全く干渉していない。本は瞬く間に売れた。電車には同じ表紙の本を持った人々が並んでいた。これを読めば天才に近づけるとかって、勘違いしているのではないだろうか。少年は学生時代、人と関わらず過ごしていた。何に対しても興味を示さないこの少年が唯一好きだったのは読書だった。学校の休憩時間、授業中、帰りのバス、所構わず読書を続けた。それがこの少年を『天才』に育てたのかもしれない。そんな書き出しで本は始まっている。勿論少年とは私のことで、これは事実である。著者は私が大好きらしく、私が話した行動全てを神のように崇めた。少年は勉強ができなかった、しかし天才と馬鹿は紙一重だ。下らない。私はただの勉強ができない馬鹿だ。天才だなんて、笑えもしない。真実を知り、自分の神が死ぬ瞬間をしかと見ておけ。私はさつ人のつみでつかまりました。私はあたまがよくなりたかったので、ころしました。ほうちょうを心ぞうにさすと、まっ赤な血が止まりませんでした。気もちよかったです。ぼくがころした先生はさいごまでパソコンを守ろうとしました。なぜパソコンが大じだったかとゆうと、そこには世界でもまだはっ見されていないすごいことがかいてあったからです。私はそれをしってました。なぜしっていたかとゆうと、ぼくは先生のかんじゃだったからです。先生はまい日ぼくとはなしをしてくれました。ある日うれしそうに「すごいはっ見をしたんだ、これをがっかいではっぴょおすれば私は有名になって、きっと世界もこのちりょうに目をむけてくれる」と言っていました。ぼくはべんきょうができません。でも本をよむのは好きです。一つも分かりませんが、よんでいたら「あのこはちょっとちがうのよ。もしかしたらすごいこなのかもしれないわ」とちかくのおばさんたちが言います。わたしはそれが気もちよくて、ひたすら本およみました。ぼくのあたまがわるいのは、一しゅのびょうきのようです。先生がしんで、はじめてしりました。先生のすごいはっ見とわ、ぼくのびょうきを直すものだったようです。先生がしんではじめてしりました。ぼくは先生のはっ見をぼくがはっ見したようにいいました。世界にはぼくと同じびょうきの人はいません。ぼくはふつうの人のようにふるまったので、このびょうきの人はいなくなりました。かちはないがれきしてきはっ見だ!とえらい人が大さわぎしました。ぼくはそうして天才とよばれるようになりました。ほんとうならば、もっとまともなぶんしょうがかけるのですが、けいむしょでもらったくすりをのんだのでうまくあたまがはたらきません。ごめんなさい。しかし、人々があがめる神など、しょせん幻想でしかないのです。私に気に入られようとひっしな姿はこっけいで、わらえた。数日後、ごみ捨て場には同じ表紙の本が並んでいた。ご主人はいないらしい。おわり書いてるうちに言いたいことが言えなくなったので残念です結局伝えられてないので、また機会があれば書きたいですね