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Headline News

Jan 13, 2007
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カテゴリ:思うこと
予め書いておくが、今回の内容は少し抽象的かつ面白いものではない。

今巷を騒がせている事件として…エリートの旦那をエリートの妻が殺害してバラバラにして遺棄するというものがある。悲しきかなだが、事件性としてはそこまで珍しいものではないし、むしろありふれているもののように思う。しかしそれでも報道され続けるということは、私達の知らないようなメディアに置ける異常殺人の定義というものがあるからだろう。素人考えには「バラバラ殺人」という部分がネックなように見える。バラバラ殺人というのは如何な荒んだ現代でもそうそう起きないからだろう。つまりは異常さにマスコミが寄って集って賑やかにしているだけのようだ。まぁそれは今に始まったことではないのでいいとしよう。本題は別だ。



殺人を起こした場合は正当性のある正当防衛であるもの以外は刑事裁判にかけられることになる。殺人というのは今の司法では一応刑期が最も重いものとして位置づけられている。しかし日本以外の先進国に比べて、日本の刑法処遇というのは甘いように思える。
例えばアメリカを見てみた場合、人を殺すということをした時点で(勿論その状況によるところがあるが、一般的な事由で殺人を犯してしまった場合)終身刑からの刑期になることになる。しかし日本を見た場合、人を一人殺すということではそこまでの強制力はない。一般事由での殺人の場合は、おおよそ懲役30年いけばいい方(?)だろう。

そこから見えてくるのが…日本が重視するのは「何人殺したか?」と「どう殺したか?」に異常に固執しているということだ。以前ブログにも書いたが、殺人というのは人の一生を奪う行為だ。しかも殺人の動機は本人のエゴであったり逆恨みであったりと殺していい理由になり得るものはない。



そこで問題になってくるのが…今世間で騒がれているバラバラ殺人についてだ。
例えばAという人とBという人がいたとしよう。その二人はいずれも殺人を犯してしまたのであるが、Aは人を1人殺して逃げただけでBは1人殺した後遺体を切断して遺棄してから逃げたという状況だったとしよう。この場合殺した人数は同じだが、刑期に差は出てくるだろうか?

司法にはあまり詳しくはないのだが、誰がどう見てもBの方が刑期が重いように感じるだろう。実際そうに違いない。つまり刑期を決定する要因には先ほど書いたように「人数」以外にも「残虐性」というものが混じってくるということだ。



先日友人とテレビを見ていると、偶然そのバラバラ殺人のニュースをやっていた。その時に友人がふっと漏らしたのが

 「なんでバラバラにするんだろう?」

ということだった。バラバラにする理由なんていうものは結局のところそれを行った本人にしかわからないのだが、普通に鑑みてみると…2つの動機が思いつく。
1つ目は「憎いから」だ。殺された本人が殺した本人に対して生前精神的・肉体的苦痛を与えていてどうしてもこの世から抹消したいという思いが大きくなりすぎた場合…ある種「見せしめ」のような感覚でバラバラにするのだろうという考えだ。同じようなものにメッタ刺しというものがある。
2つ目は「見つかりにくくする」ということだ。人間の体というものは平均しても縦170センチ・横70センチ・奥行き30センチ、つまり体積にしておおよそ357000立法センチメートルくらいある。それを丸々どこかに隠そうとするとやはり隠し場所が難しくなる。しかしそれを部位毎に分割して違う場所に遺棄すれば見つかる可能性は一気に低下する。殺したということをわかりにくくするという精神がこの行為の根底にあるのだろう。どちらかというと2つ目の動機の方が現実的だろう。


説明が長くなってしまったが、結局のところ残虐な殺し方をした方が罪が重くなるということだ。それは大いにわかる。しかし殺人の刑期を決めるという段階で残虐性というものをやりだまに挙げるのは何か間違っているような気がする。
残虐性というのはつまるところ人間性に起因する。その行為が非人間的かどうか…結局はそこでしか物事の重要性が計れないのが現代司法の問題点だろう。人間性というのであれば、人を殺すという時点で非人間的だと言える。なのでそこから汲み取って決めるというのはそこまで合理的なようには見えない。
そもそも人間が人間たる所以というのは…生きているということだ。死んでしまった人間は最早人間ではない、それははっきり言ってしまえばモノだ。正確には「生きていたモノ」だと言える。どれだけ人間に近づけて作った造形も、体組織に本物の細胞を使ったマネキンも、人間とは言えない。それは「生きていた」という段階がないからだ。同じように死んだ人間も人間ではない。
古来から死んだ人間を仏と信仰するのが日本の慣しだった。生きていた時は人間でも死んでしまって魂だけの存在になった場合は魂を「仏」と呼び、抜け殻の体には何の価値も見出さない。それが仏教の主な慣習だろう。そのような背景から推察しても、死んでしまった人間というのは人間として扱うには無理があるということだ。

そのような意味でバラバラ殺人を考えた場合…殺した人間をバラバラに切断している行為は残虐だというよりも、極論だが木を彫って自分の気に入る形に創り上げているという行為とそう変わりはない。芸術だというつもりはないが、信仰によって人間とされるものに「人間性」を適応するというのは理に適っていない。



つまりバラバラ殺人だろうが鈍器で撲殺しただけの殺人だろうが、人間性などと逃げを打つのではなく「殺人を犯した」ということに対して平等な観点で司法の場において裁くべきだということだ。事件の特異性だけでマスコミが騒ぐ、遺族の悲しみを考えない…それを考慮して重い刑にするということは何の救いでもない。重要なのはマスコミが盛り上げて騒ぐということを仕方ないこととしていることだ。司法が残虐性だけで刑期を決めるのも問題だが…マスコミの報道のあり方も同時進行で変革していかないと矛盾はどんどん多様化するだけだということだ。





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Last updated  Jan 13, 2007 02:25:35 AM
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