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カテゴリ:思うこと
ミッフィーが順調に増えていっている。 ローソンのミッフィーグッズを集めるようになりだして暫く経つのだが、未だに私の家には多くのミッフィーボウルが順調に増えていっている。今になって考えてみると、私は別にミッフィーが特別好きだというわけでもないし、かと言って食器に困っているわけでもなかった。しかしそれを集めようと思ったのは…何か使命のようなものなのかもしれない。 溜めるだけ溜めて何も使われずに破棄されていくというのは悲しいことだ。それならば誰かが有効に使えばいいだけのことなのだが、その「誰か」という存在が生憎私の仕事場には存在していなかった。そこで頼まれたわけでもないのに私の登場というわけだ(笑) 今現在で、私の家には10個のミッフィーボウルと予約されている1個の合計11個がある。集めてみて、それをうず高く積んでみて思ったのだが、どうにもこれだけ集まってしまうと汎用性がない。使い道はあろうが、それだけの数が必要とされる現場は今のところ考えられないというわけだ(汗)これは最早牛乳瓶の蓋を集めるレベルによく似ているような気がする。持っていることに意味はないのだが、それが身近にあることで充足してしまうという境地なのかもしれない。 身近にあるということに関連して今回のテーマへ 先日衝撃的なニュースを報道していた。それは京都市内で通り魔があったということだった。被害に遭ったのは女性で、幸いにして命に別状はないものの、それでもそのことは非常に印象深いことだった。 そもそも、このような通り魔犯罪は珍しいものではない。こんなことを言っても否定的な意見を買うことがないほど現代は犯罪で溢れていると言える。それはそのような現状が最早当たり前になっていることに起因するのだが…楽観的に捉えられる事象ではないことは自明だ。慣れとも言えるかもしれない。 私にとってほぼ毎日のようにテレビで報道している犯罪の内容というのは、日本国内で起こっているという認識はしていても、どこか人事のような気がしていたのも事実だった。確かに日本で起こっているものの、それは行ったこともない何処か…知らない何処かで起こった「自分には関係ないこと」という捉え方をしていた感があった。それはマクロ的に見てもそうであって、何処かの国で紛争が起ころうとも、何処かの国でテロやデモが起ころうとも、それが起こることによって自分のこれからの生活にはなんら影響はないと信じている節があった。 しかし今回のように自分の住んでいるところから非常に近い位置で犯罪が起こってしまうと、人はテレビで報道されていても歯牙にもかけないようなニュースでも機敏に反応してしまうというものだ。そのレベルは人それぞれかもしれないが、それらは往々にして犯罪の凶悪性に比例していると言える。もっと関心を持とうという動きもあるかもしれない、しかしそれはあくまで「遠くで起こったこと」という壁がある以上は、それ以上突っ込んだ興味を示さないのもまた事実なのだ。 ここ10年でも悲劇的な事件は起こっている。しかしその当事者でない人にとって、それがどの程度記憶に残っているものなのだろうか?おそらく言われて「あぁ~」という程度の認識しかしていないだろう。それだけ興味を示さないというのは偏に距離による乖離が起こっているからだろう。突き詰めるとそれは報道のあり方に帰着することになる。 例えばどこかで大規模なテロが起こったとする。現実的には有り得ないことなのだが、そのニュースはテレビで報道されなかったとする。その時、その事件の当事者以外、一体何人の人がその事件を正確に知ることが出来るだろう?きっと知らないということで誰にも認知されることなく忘れられていくだろう。 報道というものはそれを「正確に」伝えるという観点に立っている。それなのに事件の凄惨さだけを抉り取ったような報道の仕方をしていることが多い。キャスターだけが客観的で、報道している内容はもろに主観的なものになっている。それが全てだとは言わないが、そのような報道のあり方が当たり前になっているからこそ、興味がなくなる、自分には関係ないという考え方がマジョリティになっているのかもしれない。 と、色々言ったが… 結局私もそのような考えを持っている1人だ。件の通り魔事件は確かに印象深いものがあったにせよ、きっとすぐに忘れてしまうだろう。 自分に降りかかることでどんな小さなことでもその犯罪の等身大の被害を感じることが出来る。それをありのまま報道で伝えることは或いは難しいことなのかもしれない。しかしそのような報道のあり方を追求することこそが、それを「生業」としている関係者の義務のように感じる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Aug 21, 2007 04:07:06 PM
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