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カテゴリ:心境の吐露
私のブログ仲間の1人が逝去なされた。 謹んでご冥福をお祈り致します。 驚いた時に大声を上げる人がいないように、本当の突発的なニュースには誰しもが明確なリアクションがとれないものだ。私が彼の訃報を知った時もまた、大きく躍動的な驚きよりもむしろ静かに染み渡るような悲しみが訪れたものだった。 私は彼のことを何も知らない。 ただ彼の書く文章だけがその人のイメージであり、そして全てでもあった。 日常は知らないが、その日常を支えるバックボーンはよく知っていた。 ある意味ではその人の本質を見ていたようにすら思える。 落ち着いた物腰 ウィットに富んだ表現 語彙力のある文章 それらの全てが私の憧れであり そして敬服に値するものだった。 彼と最初に知り合ったのは何時だったろうか… もう随分前のようで、それでいて最近のような気がする。 更新頻度はそれほど多くない。 むしろ安定的な供給をされる方だった。 当時の私にしてみれば、その更新頻度については不思議だった。 しかし今はそれがよくわかる。 誰よりも一生懸命に生きていたのだろうと。 今の私はちゃんと生きているだろうか。 生かされてはいないだろうか。 何時だって自分という主観を取り巻く環境で、先に逝くのは良い人ばかりだ。 生きながらえることは、人としてのジャッジに漏れた人の集まりのような気がしてならない。 ジャッジにかかるは善人 逃れるは悪人 今を生きていることが、人知れず行われるジャッジから零れ落ちた一握の奇跡だ。 生きていることと生かされていることは意味が全く違う。 無為に生きることほど人間性に欠如した行動はない。 私は生きているだろうか? 今はただ彼と仮初の言葉を交わした時期が懐かしい。 また1人貴重な知り合いが私の前からいなくなった。 生かされているのか生きているのか。 人の死はそれらの考えを深層に誘う 貴方の言葉を私は忘れない。いつまでも元気であらせられるよう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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