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カテゴリ:普通の日記
人の価値に反比例して時間の価値は高まる。 子どもの頃は何でも出来るような気がしていた。実際に色々なことをやってもある程度はものになったし、周りの環境だって暖かくて過ごしやすいものだった。才能と言えば聞こえはいいだろうが、要するに多くの可能性を秘めた存在だったというわけだ。誰だってそうだ、子どもの頃は可能性の塊のような存在だ。それが自分自身の可能性を狭め出来ることと出来ないことという名の出来そうにないことへの線引きを行う。大人になるということは子どもの頃に感じていた可能性を自分で否定することと同義だということなのだろう。 子どもの頃に溢れているものの1つに時間がある。あの頃は時間なんて余るほどあったように思う。何をするにも時間を使うのだが、その時間は無限に沸いてくるような存在だったように感じる。子どもの頃の時間の価値はそう高くもないように思える。勿論それは当時の自分を反芻した結果そう思うだけで…今私自身が感じている時間の価値とは雲泥の差だ。 今は時間が何よりもの価値のように思える。 自活出来ていない頃は、お金がかなり重要な意味を持っているように思えた。お金があれば自分の好きなものを買えるし、何処でも好きな場所に行くことも出来る。お金の価値は時間とは比較するものではない。多少分の悪い交換でも、片天秤に時間が乗っていてもう片方にお金が乗っているのだったら迷うことはなかった。 だが、今はどうだろうか? 今は何よりも時間が欲しい。ある程度生活していくのにも緊急のことが起きても大丈夫な程お金を手に入れると、それが使えないということに対するフラストレーションが大きくなってくる。仕事が忙しくて休みの日は不毛に過ぎていくだけの毎日、好きだった旅行も出来ないという不満、そういうものが重なってなかなかに時間の使い方や価値についてじっくり考えることとなってしまった。 まるで砂漠の真ん中で現金を持っているようなものだ。お金の価値は不変でも、それを使う場所がない、機会がない。なんだかそれがとても虚しいことのように思えてきた。今は時間が何よりも尊い存在のように思える。自明なのだが、それがない状況に陥ると痛いほどに実感するものだ。 現状欲するものはただ1つ、仕事や人間関係のしがらみについて考えなくてもいいような連休だ。5日ほどあれば素敵だ。あぁ、休みが欲しい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Apr 11, 2011 09:18:54 PM
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