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カテゴリ:考え事
何をするにもお金が要る。 至極当然の話ではある。何をするにもお金はいる。昔みたいに、ただ何も考えずに遊んでいるだけで良かった時代には、お金なんて殆ど必要ではなかった。しかしその環境を保持する為にもお金が必要であるということを知らなかっただけで、実際はお金の上に生活は成り立っている。自明のことだが、子どもの頃にはその当たり前にも気づけないことが殆どだ。 何をするにもお金が必要で、そのお金を稼ぐことは非常に難しい。ただ好きなことをしていればお金になる人なんて稀だ。皆嫌なことをしてお金を稼いでいると言えるだろう。アルバイトだってなんだって、自分の時間というかけがえのないものを犠牲にしてお金に換えている。時間という何ものにも変え難いものを安売りしてお金を手にすることになる。誰だってそうだ。 突き詰めれば突き詰めるほどにお金の価値は大きく…そして希薄であることを知る。それが本質的なところなのだろう。 私は今お金がない。ないとは言ってもそれなりにはあるのだが、同年代の人よりは持っていない方だろう。それにお金が必要だと感じることも殆ど無かった。それは単純に使い道がないからだ。例えば目の前に大金があったとしても、その使い道を考えるだけの頭が私にはない。大金があっても何に使っていいのかわからないのだ。何かが欲しいということもあまりないし、分不相応だと感じてしまうことだろう。昔から大金には縁がなかったからだろうか、そういったシチュエーションには困ってしまう私だった。 しかし今は違う。今はお金を使う対象がいる。そしてそのことが少しずつでも私のお金への執着を戻しているようだ。 考えてみればそれはかなり久し振りなような気がする。子どもの頃なんかは、欲しいものの為に一生懸命にお金を貯めていたものだ。思えばその頃の生き方は愚直ではあったものの、なかなか充実したものであったように思う。半端なお金を手にした今、欲しいものはあってもすぐに手に入ってしまう。そのことが私からお金を貯めるということをやめさせたのかもしれない。そして目的を無くさせたのだろう。 お金を使う対象がいるということは、自分が使える部分もかなり矍鑠とするということだ。人によってはそれを不自由だと思うかもしれない。しかしそれくらいの制限があった方が逆にいいように思う。少なくとも私には効果的だ。ゴールがないまま走り続けるよりも、後何キロ走ればいいと知らされている方が頑張れるようなものだ。目的意識が薄弱になってきた今までの私だからこそ、より高次の目的が据え付けられ、そしてそこに向う気になったのだろう。 今は以前よりもお金が大切に思えるようになってきた。それは恐らく…お金の価値に気づいたというよりもむしろ、それがあることによって見つかる幸せのようなものを発見したからかもしれない。物から人へと、私の興味はうつっていったのだろう。貯金も具象があれば楽に出来るような気がするから不思議だ(笑) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Oct 12, 2011 06:09:30 PM
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