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玉の輿(こし)なる神輿(みこし)を見かけました。
今宮神社の還幸祭(かんこうさい)の行列の中で。 「剣鉾差し」が26年振りに復活するという新聞記事を 昨日見て、今日初めて今宮神社の還幸祭なるものを見物に出かけたのです。 もっと短い、やすらい祭くらいの行列を想像してたのですが、意外や意外、 西陣のいくつかの町内が挙(こぞ)って、神輿や剣鉾やお稚児さんや牛車や 山車を繰り出しているようで、 祇園祭の32基の山鉾とまではいかないまでも、ミニ祇園祭の様相でした。 その中に高校生か大学生が中心の賑やかな神輿がありました。 それが玉の御輿。俗に言う玉の輿(こし)。 徳川家光の側室となり、綱吉を生む後の「桂昌院」は、 もともとは京都西陣の町人の娘で、名前は玉といったそうです。 公家の屋敷に女中奉公に出向き、仕えていたその公家の娘さんが、 家光の下に側室として上がった折、同行しその後、将軍家光に見初められたとか。 これが玉の輿(こし)の由来です。 「西陣八百屋の娘、玉さんは~」とギャル神輿の担ぎ手の若い女性たちは元気よく 歌い、殿の女の子は「玉の輿御守り」をPRしていました。 町人から将軍の側室となり、母となり、大奥を束ね、最後は皇族以外の女性としては 異例の従一位という高い官位を授かった「桂昌院」は、幼き頃より神仏への 信心も深かったようです。 南禅寺別院「南禅院」の方丈や西山宮門跡「善峯寺」の本堂など数々の寄進が記録されて います。きっと自分の故郷への恩返しのつもりだったのでしょう。 幼きころの玉もきっと今宮さんにたびたびお参りに行っていたのでしょうね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 14, 2006 10:24:17 PM
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