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今日は昼からBurgの新王宮にある国立図書館に行った。 この新王宮が面したHeldenplatz(英雄広場)は様々な意味を持っている空間であるが、(もともと英雄広場という名前は、ここに立っているオーストリアの英雄カール大公とプリンツ・オイガン公の巨大な騎馬像に由来している。この像をカール大帝と間違えている人が多いが・・・)かつてナチスドイツが1938年3月12日オーストリアに軍事侵攻をしたときに、ヒトラーがこの英雄広場に面したこの新王宮のテラスから集まった10万人の市民に対して「オーストリア併合」の有名な演説を行った場所である。当時のオーストリア首相シュシニクは、1938年2月に、ドイツのミュンヘンの南ベルヒテスガルテンにあるヒトラーの別荘に呼びつけられ、ヒトラーからオーストリア併合の承諾を迫られた。その対応に窮したシュシニクは帰国後、国民の信任によってこの難局を切り抜けようと国民投票に打ってでようとしたが、それが裏目にでて、国民投票が実際に行われる直前(1部では行われていたが)にドイツが3月12日午前8時にオーストリアへ軍事侵攻した。オーストリアはほとんど抵抗を見せず、この信仰は無血にうちに成功した。そして首相シュシニクは亡命せざるをえず、首相代行となった親独派の内相ザイス=インクヴァルトは、この軍事侵攻をオーストリアによって「要請」されたという形にして処理した。当時オーストリアは潜在的な右派(キリスト教民主党・ナチス系政党)と左派(すでにシュシニク政権のもとでは禁止されていたが、社会民主党・共産党)の対立が根深かったが、これによりオーストリアは第2ファシズム期(シュシニク政権も一種のファシズム政権であった。イタリア・ファシズムに近い立場であったが。)結局オーストリアは、「ドイツ帝国とオーストリア共和国の再統合に関す法律」により、ドイツの1州「オストマルク」となることによって国が消えることになった。 かつてハプスブルク王家の人たちが住んでいたのがHofburugであるが、この新王宮は、造営は遅く、完成したのはすでにハプスブルク帝国は消滅してしまっていた。だから、ここにはフランツ・ヨーゼフは一度も足を踏み入れていない。現在では国立図書館、エフェソス博物館、古楽器博物館、宮廷武器甲冑博物館そして民族学博物館などが入っている。それぞれの博物館が特徴がありおもしろい。特に古楽器博物館、宮廷武器甲冑博物館のコレクションは興味深く、古楽器博物館では現存しないような楽器やこれまでの楽器の進化の過程などがよくわかっておもしろい。またウィーンはピアノのBoesendorferの地元なので、すばらしいBoesendorferのコレクションがある。また宮廷武器甲冑博物館のコレクションも見事である。グラーツにある武器博物館はその量において人を圧倒するが、ここのコレクションは、マクシミリアン1世(Maximilian 1 生没年:1459-1519)やカール5世の甲冑など、工芸品として美術品として、そして歴史的な価値において見事なものである。 図書館では前日インターネットで予約しておいた本を借り受け、コピーをした。(ここのコピーは150枚10ユーロである。1枚9円ぐらい)オーストリアの民衆劇作家であるNestroyとZensur検閲の問題を扱ったものはなかなかおもしろそうであった。この問題は日本ではほとんど扱われていないので、参考になる。一昨日みたシュニッツラーのDas gruene Kakaduに関して現実と仮象との関係から書かれた論文も見たいと思ったが、それはどうも貸し出し中で手に入らなかった。あとJosepf Rothの小説に関するものも手に入ったがそれは翌日以降にまわすことにした。 図書館には3時間ぐらいいて、5時半ごろオペラ座に向かった。今日は小沢征爾の「ドンジョバンニ」である。これは6月に1回見たプログラムであったが、もちろん歌手は違っている。 Wiener Staatsoper Dirigent: Seiji Ozawa Don Giovanni - Michael Volle Komtur - Mikhail Kazakov Donna Anna - Anna Netrebko Don Ottavio - Rainer Trost Donna Elvira - Soile Isokoski Leporello - Ildebrando d' Arcangelo Zerlina - Sophie Koch Masetto - In-Sung Sim 印象としては、無難な作品の出来であるが、これといった特徴もないのも特徴である。はDonna Annaの衣装がとても目立ったというところだろうか。このDonna Anna役が一番この作品の中では難しいように思える。つまりDon Giovanniを憎みつつ惹かれるという役回りである。Anna Netrebkoは、伝統的なスタイルを保ちつつ時折そこから逸脱しようとする努力を見せていた。しかし回りの雰囲気から完全に脱することは出来ていなかった。 ドンジョヴァンニ役のMichael Volleは、まあ優等生的な出来であった。それほどの感動もないが、まあ満足といった程度である。Elvira役のSoile Isokoskiもよく歌っていたが、これもまあ及第点といったところである。 小沢の演奏であるが、新聞などを見ると厳しい評価もある。Bei Ozawa tragt Mozart keinen Masanzug, sondern Konfektionsware, alles von der gleichen Farbe, ein wenig duster, ein wenig dumpf. 彼のモーツアルトはいつも既製品で、同じ色合いで、陰影が無い。 Der Applaus war stark nachher, aber blieb im Rahmen. Starkult ? fur wen auch immer ? war daraus jedenfalls keiner abzulesen. 拍手はとてもあったが、型どおりのものであった。彼のスター性は、演奏からは感じられなかった。 でもまあモーツアルトはいつ聴いてもいいものである。今日は偶然知りあいのS教授にオペラ座であった。オペラの後で一緒に近くのタイ料理やSiamという所に行った。なかなかよかった。私は「鶏肉のご飯炒め」(Kao Pat Mu)というのを頼んだが、最初は気が付かなかったが、なかなか辛い一品である。これは地元の人では食べられないだろうなあと思いながら食べた。でも辛いものは久しぶりなのでおいしく食べた。こんどまた来ようと思う。 (2005.2.12) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年04月16日 18時09分34秒
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