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2021/09/20(月)06:10

日本は中国には負けていなかった:柳条湖事件90年に思う

​ さる9月18日、スターリニスト中国の瀋陽郊外にある「九・一八歴史博物館」(写真)で、柳条湖事件90年の記念式典が開かれた。式には、中国共産党序列6位、政治局常務委員の趙楽際も出席した。 ​ ​◎日中戦争=「15年戦争」の始まり​ 政治局常務委員という党最高指導部のメンバーが、記念式典に出席するのは7年ぶりという。習近平の対日姿勢の厳しさを反映したものとみられる。​ 高校の歴史の時間でも習っただろうから、読者は柳条湖事件(写真)はご存じだろう。1931(昭和6)年、関東軍が奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近で南満州鉄道を爆破、中国(当時は蒋介石の国民政府)の仕業に見せかけて北大営を攻撃し、支配地域を拡大し、後の満州国の建国に至った。いわゆる「満州事変」である。  日本の左派系歴史家は、この日をもって日本の「15年戦争」の開始とする。またスターリニスト中国も、この日を「国辱の日」し、中国共産党は「抗日戦争」の起点と位置づける。 ​◎共産党は「長征」という名目の逃亡の旅、延安到着後は日和見戦術​​ 僕は、スターリニスト中国が「よく言うよ」と思う。当時、中国共産党は、国民党との内戦に敗れ、「長征」と称する延安への逃避行にあった(写真=長征途上の毛沢東。毛沢東は、この途上の遵義会議で中国共産党の指導権を握った)。​  日本軍と戦おうにも、その戦力はなく、ひたすら逃亡と延安に落ち着き後は「持久戦」と称する日和見戦術を続けていた。日本軍と正面で戦っていたのは、蒋介石率いる国民政府軍だった。 ただ、アメリカやイギリスの支援を受ける国民政府軍は、戦意が乏しく、弱かった。1937(昭和12)年12月には、国民党政府の首都だった南京も陥落した。蒋介石は、首都機能を内陸部の重慶に移さざるを得なかった。 そのため中国進出を進める日本軍は、華北はもちろん華中の奥深くまで占領地を広げた。 ​◎日中戦争終結できず対米戦争を開始した致命的ミス​ しかし、日本軍は戦線を拡大しすぎた。兵站線が伸びきり、空爆はできても重慶攻略までとてもできなかった。そうこうするうちに、アメリカ、イギリスなどとの太平洋戦争開戦に至る。​ 中国を屈服させられないで、強大なアメリカと戦争するなど正気の沙汰と思えないが、対米開戦直前にアメリカから手交された最後通牒の「ハル・ノート」では、日本軍の中国からの撤退が盛り込まれていた(写真=アメリカ側のコーデル・ハル国務長官と最後の会談に臨む野村吉三郎大使と来栖三郎大使、1941年12月7日)。中国本土の広大な占領地と植民地の満州国を持つ日本には飲めない和平条件だった。 ​ そして太平洋戦争開戦後は、中国戦線は「現状維持」となった。日本軍は、ただ疲弊するばかりだった。 ​◎共産党軍は日本軍と戦わずに力を蓄え、日本降伏後は蒋介石軍を破る​ この間、中国共産党の八路軍と新四軍は、ほとんど日本軍と戦わず、日本軍の矢面に立つ国民政府軍の消耗を待つ戦術をとっていた。 日本の敗戦で、軍事的空白が出来ると、中国共産党軍は国民政府軍への攻勢を開始し、やがて1949年の中国全土の制圧へと至る。 要するに、日本は中国には負けていなかった。敗れたのは、アメリカとの戦いであり、中国と決着を付ける前にアメリカとの戦争に入ったのは大きな戦略ミスだった。 スターリニスト中国が「抗日戦争」などと言うのは、歴史の歪曲、そのものなのだ。 ​昨年の今日の日記:「我々の体内に潜むウイルス――それこそウイルスの成功者」​

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