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新しいスピリチュアルな考え方の提案・LORAN

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2014年06月16日
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聖一国師.JPG

一昨日、静岡市の会場のロビーに、小冊子が置かれているのを見つけました。
「聖一国師」の伝記でした。
それを手に、傍らの椅子に腰かけて、一息に読み終えました。

皆と一緒に昼食をいただき、そのまま、一人で国師の生地へ向かいました。
静岡市の北方、藁科川の上流域に栃沢はありました。

その入り口は、車が1台分しかなく、しかも急な坂道でした。
更に、殆んどがすれ違いが出来ない狭い山道を、数km行った先にありました。

今でも通行が困難な場所ですから、八百年前は、どれほどの僻地だったのでしょうか?
この地に生まれ、天皇から日本一と号をいただいた大人物でした。

顕彰碑の前に立ち、国師の偉業に感謝しました。
国師の優しい心遣いが、人々の生活を支え、発展させて来たのでしょう。


幼名 龍千丸(りゅうちまる )。
母のせいは、度々、天女が夢枕に立って、妊娠した。

4歳で、久能寺の堯弁( ぎようべん)に預けられた。
円爾弁円(えんにべんねん )と名付けられた。

13年後の18歳の時、近江の園城寺( おんじようじ)で、剃髪。
更に、奈良の東大寺で受戒し、正式な修行僧になる。

上州上野の長楽寺で栄朝に学び、宋に渡る決意をする。
宋船の出港地である博多へ行く途中、郷里の駿州栃沢に立ち寄る。
園爾、32歳であった。

博多へ到着し、待つこと2年。
1235年4月、肥前平戸より出港。
園爾34歳。

径山萬寿寺(きんざんまんじゅじ )で無準禅師(ぶじゅんぜんじ )の門下となる。
3年後の1241年5月、宋の明州( 寧波市)を出港して暴風雨に遭い、3隻のうち2隻は沈没。
2ヶ月後に、高麗国へ漂着。

八幡大菩薩の守護をいただく。
博多へは、ハトが飛来して導いた。
筥崎( はこざき)八幡宮の御使いだった。

帰国後、宋の貿易商、謝国明の援助で、筑前に萬松山承天禅寺(ばんしょうざんじょうてんぜんじ )開山。
うどんやそばの新しい製法、博多人形や織物(博多織り )の製法、水車による動力などを伝えた。
まんじゅうや羊羹などの製法も。

宋への留学時に博多から同行した優れた陶工や商人に、最先端の技術を学ばせた。
博多の街に疫病が流行った時、円爾は施餓鬼棚に乗って街中を回り、人々に仏前に供える霊水「閼伽( あか)」を振り掛けて疫難を封じた。
その厄払いは、「博多祇園山笠」の起源と言われている。

現在は、栃沢にある円爾の生家の池の湧水を、「聖一国師産湯の水」として、祭りの山車に柄杓で撒く行事が行われている。
1243年2月、京の九条道家公に招かれ、建立中の東福寺の開山の就任を受諾。
法位の授与を固く断ったので、聖人の第一人者の意味で、「聖一和尚」としたためて、贈った。

1244年秋、駿州栃沢へ帰宅。
母に茶の種を贈る。山向こうの足久保にも自ら茶の種を蒔く。
東福寺は、35年の年月をかけて完成し、臨済禅を根付かせた。
79歳で生涯を閉じた。

31年後、花園天皇から、日本最初の国師の号を賜る。
それ以来、「聖一国師」と称される。
茶の種は、静岡県を日本一の茶の産地にした。





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最終更新日  2014年06月16日 22時22分06秒
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