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K吏担当

2019.04.17
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カテゴリ:表沙汰
いつまでサターンリターンが続いているんだろう。というのはある。土星がASC, DSC IC, MC, 感受点や太陽や月、なんかに近いと、サターンリターンが終わっても、土星とのコンジャンクションがしばらく続く。自分のサターンリターンはなんだったんだろう。今から2年前が中心で、2018に入って影響は脱したように見えた。だけれど自分の場合ホロスコープで土星の後、天王星、海王星、ASC、太陽と数度間隔で続くから、それらにも次々土星がリターンする。そのなかでもASCと太陽なんかは強い感受点だろう。
 自分は今年にASCとあとそこに弱めの合をしている太陽に土星が来ている。自分の世代(1988年生くらい)の場合は、世代の星でいえば去年の2018年12月に海王星との合が終わった段階で、サターンリターンの影響を脱したと言えるのだろう。土星合土星の影響は、2018年に入る頃には終わっているとは思うが、自分の世代周辺は、土星の近くに天王星や海王星がゴロゴロしているからだ。射手座や山羊座生まれだと、なおさら太陽などの個人天体が近くにウロチョロしているので、土星の影響が強くなる。
 自分は今年ASCと太陽との間を土星がうろうろするので、サターンリターン的なのは、今年で終わりだと思いたい。ところで、まあこれも世代の星だが、今年生まれる世代は土星と冥王星を山羊座で合に近いものを持つ人が多い。しかも山羊座や水瓶座に生まれているならば、サターンリターンの時に冥王星も太陽も巻き込むことになるだろう。言うなれば、自分もサターンリターンの時に冥王星が巻き込まれている。今土星と冥王星が合なので、その地点に誕生日を持つ自分は、太陽に土星もくるし冥王星もきている。この強烈なアスペクトをなんと解釈するべきだろう。自分も含め1988年前後数年の冬生まれも今そうだし、今年生まれてくる子供達、特に冬生まれは、29~31年後、どのような強い破壊と創造、自分の力ではどうしようもない出来事と、その葛藤を経験するのだろう。

 このアスペクトを考えるにあたって、冥王星と土星の合は、冥王星が破壊と自分ではどうしようもない出来事、をさすし、土星は抑制としかし努力をさす。このふたつの星は、共通点と正反対のものを両方持っている。共通点としては、強い抑制、脅迫のように強いられることで、正反対のものとは、努力と無力の違いである。
 土星の障害は乗り越えられるものだが、冥王星の障害はなすすべもないものだ。厳しい仕事を自分一人の力で人はなんとかこなせるかもしれないが、地震や台風を自分ひとりの力でとめることはできない。それが土星と冥王星の違いだろう。

 実際、占星術解釈で最も揺れるのは「動くべきか」「動かなくていいか」である。

 人間は、基本的に他者の「真実」から絶対隔離されている。私たちは、占星術のホロスコープによって、その人が望んでいるものを読み取るかもしれないが、究極的にはその「真実」からは隔離されている。この哲学的命題は他の全ての霊能者なんかにも言えることだが、自分の住んでいる世界と他者の住んでいる世界は完全に違う可能性があるのである。例えば、私は赤色を見て「赤色」とそれを呼び他者もそれを「赤色」と呼ぶが、それは語彙が共通しているだけで、実際同じ色を見ているとも限らない。私が「青色」と認識するものを他者が「赤色」と認識していたとしても、私も他者もそれを同じく「赤色」と呼ぶのだから、私と他者が同じ色を認識ていることを確かめることはできない。
 それで言いたいのは、私の「私は努力した」と他者の「私は努力した」が同じであるか確かめるすべがないということである。土星は「私は努力した」の星なのだが、私が他者と比べて努力しているか、努力していないかは、比べることができない。私が他者の意識状態になることができれば、それを比べることができる。
 イタコや降霊術なんかで、それはできるかもしれない。しかしそれでも彼らが憑依するのは「自分の意識」においてである。「自分の意識」に「他者の意識」が乗り移ったとしても、それは「自分」が「他者」であるとは少し違う。占星術の対面式鑑定や霊能力でのそれら、その他精神科医なんかでもカウンセリング性のある仕事では、そういった「他者の意識」と「自分の意識」を同一化させる作業を行なっている。人間には、そのエンパス的な能力があるとも言えるが、人間と他者は究極的には隔離されているため、その「共感覚」は妄想である、と言われれば、反論はできない。他者の意見を、私が「あなたはこう思っていますね」となんらかの技法によって読み取ったとして、他者は「その通りだ」と言ったとしても、相手が嘘をついている可能性がまだある。
 そういう嘘を見抜けるのが霊能者かもしれないが、「それは妄想である」という反論は、どこまでも永久にいたちごっこのように適応できるのである。「私は、他者がこう思っている、と思う」その内容は「私の意識上」にある存在であって、「他者の意識上」にあるものとは、同じであるかもしれないが同じでない可能性もずっとある。

 なにはともあれ、私たちが「動くべきか」「動くべきでないか」は心の問題に直結する。人は「精一杯努力して、不合格!」みたいな経験をすることもある。それをのちにあの頃の苦労が記憶から消えた頃に「あの頃、もっと努力していればなあ」なんて思ったりもする。あの頃はあの頃なりに精一杯生きているはずなのに、記憶の改ざんは簡単に行われる。
 他者の努力は常に伝聞である。他者の五感になりきれば、自分の努力の辛さとその人の辛さを比べて、自分は「もう十分」とも思えるかもしれないのだけれど、常に共感性という霊能力的な推測で相手の努力度は測るしかないのが人生。

 土星も冥王星もどちらかといえば向こうからやってくる感はある。対して木星は一般的に、自ら動いたほうがいいと言われる。

「自分の運命は、自分で切り開くんだ」という考え方もある。いや実際に、そういう人たちが占星術を攻撃する理由は、なんというかすごく機械的な問題である。占星術は、別に運命を強制しないし、それは「引き寄せの法則」的なものまで視野にいれると、また別の問題になるが、世界を相対的に考えるか絶対的に考えるかの問題である。この世には妄信的態度と懐疑的態度があって、現代科学だろうが過去の宗教だろうが相対的に考える自由はある。でもなぜ人はその自由を封じて妄信的態度をとってしまうのか?それはやはり、確信的な指標があれば人が幸せになれるという人間の法則性があるからだ。

 人は「自由」か「幸福」かどちらかを選ぶことになる。幸福にはしかし、失望もある。失望により幸福を捨て、自由を選んだ人間の、妄信的態度により幸福とともにある人へのルサンチマンみたいなのもあるかもしれない。

 あとは、「自分の運命は、自分で切り開くんだ」というのは、選択肢が多様に用意されている場合である。なんの選択肢もなければ、今あることをやるしかない。それは自由とは言えない。だから人間は自由なときもあれば、選べるときもある。土星や冥王星の時期はいろいろ自由ではない。「自分の運命は、自分で切り開くんだ」という助言は、そういった時期にいる人々を苦しませる。自分でなんとかできない状況のときに「自分の運命は、自分で切り開くんだ」なんて言われたら、そもそも腕がないのに腕相撲をやれと言われているような感じで、腕相撲もできない自分なんて、と鬱がひどくなるだろう。
 確かに自由にいろいろ応募したり、いろいろ挑戦したりはできるのだが、相手から受け入れられづらい。楽観的な観点からすれば、それは「本当の自分にたどり着くための、軌道修正」となる。

 そういった「運が悪い」出来事が、「過去の自分の努力が足りない」ということにつながる。そこは、過去に関する記憶がだいぶ薄れていることで、実際いつも人間は精一杯生きているはずなのに、努力が足りなかった頃として改ざんが行われる。






最終更新日  2019.04.17 10:59:32
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