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Два облака

2019.10.20
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カテゴリ:表沙汰
クリアするのが難しいゲームなんかでは、いろいろ育て方をミスったとか強武器入手のチャンスを逃したとか、そういうことがある場合は、はじめからやり直したほうがスムーズに最後まで攻略できるときがある。人生における自殺衝動はそれに似ているのだろう。

 ゲームをはじめて、一番最初に引くガチャが肝心な場合は、そのあたりがでるまで、ゲームをアンインストールし続ける。そうすると、難易度も変わってくる。

 人生をやり直したいという気分は、人生をよりよくしたいという意思に基づいている。ガチャを引きなおしたいという意思に基づいている。私たちが輪廻転生をしていて、今の私を含め、そのほかの過去生や来世などいくつもの人生を経験することとなる「私を超えた私」あるいは「私の操作主」のようなものの存在が前提として必要だが。

 ヒンドゥー教やプラトンの『国家』にでてくるような輪廻転生は、その存在の前提がある。それはいわゆる「魂」と呼ばれるものだ。もし私たちは肉体が血を巡らせて機能している間のみが「存在」なのだとしたら、人生にはそのような意味は全く存在できない。人生というガチャを引け直せる存在がないのなら、人生というガチャも意味はない。

 ヒンドゥー教の「カルマ」はそのよりよいガチャを引けるようになるポイントのようなもので、過去生で特定の「善」的な行動をすることでポイントがたまっていく。

 私たちはとくかく「強くてニューゲーム」がしたいのである。でも強くてニューゲームをしても、周りが皆「強くてニューゲーム」だったら成り立たない。自分だけ強くなければ、その意味がないから。この世に「劣った者」「優れた者」があることが人間の最大の苦しみの核心なのだが、それがないと生きられないようなところもあるらしい。

 ニーチェの永劫回帰なんかは、「輪廻転生」しているけどカルマもガチャもどこにもないというものだ。同じ人生を、永遠に繰り返す。それだけ。それを耐えられる力を持つ者を、超人と呼んだ。ときどき、スピリチュアルでは、自殺をすると、そのような永劫回帰的状況に陥るという考え方がある。「自殺禁止論」はプラトンからキリスト教まで、太古からずっとあるものだ。それに対し、「自殺」で落とし前をつけるような文化もある。

 これはゆゆしき問題である。なぜなら、人は死を乗り越えることで、おそらく最も強く、最も自由に生きられるからだ。死と、その過程である痛みにたいする恐怖がなければ、人は何でもできるだろう。現代の自殺も、実のところ、むしろ「死と痛みへの恐怖」で行われている。
 将来、破滅することを恐れ、まだ破滅していないうちに人生を終わっておく。そのほうが、受ける痛みが少ない。それが自殺というものの合理的解釈である。

 自殺すると、他者が悲しむ、他者が損害賠償を迫られ、苦労する。そういう自殺禁止論の場合は、「私が他者になりえるか」という可能性について考える必要がある。私が私の経験のみで完結するならば、強烈な共感覚性を持っていない限り、私は他者の悲しみを本当の意味で体験することはないからだ。簡単に言えば、他者が私の死で悲しんだり損害賠償や死後処理で苦しんでも、私はもうこの世にいないので、その情報が受け取れない可能性があるということだ。

 唯物論では死後を経験できないので、死後の誰かの悲しみは私に全く関係ない、と結論を下すことができる。
 だがそれに対して、多くのスピリチュアル的な考え方は、死後にも「私」が続くこと、また死後は「私」と「他者」の境界線が生前と常識から転じる可能性があること、そこから他者の悲しみや苦労を死後「私」が味わう可能性がでてくる。
 いわゆる現代でも「霊的な人」「あの世と通じてる人」というのは、他者の気持ちを簡単に汲み取ることができる、共感覚にすぐれた人間のことを言う。エンパスともよばれるが、おそらく、他者をモノとしか考えないサイコパスの対極にあるのだろう。他者の悲しみが伝わってくるのなら、他者の苦しみが自分の苦しみに直結してしまうので、そのときはどうしても慈悲心みたいなのが生まれてしまうはずだからだ。

 唯物論的な立場からすれば、「他者の考え」は全て妄想にすぎないと結論づけることもできる。私たちは、他者が「こう思っているだろうな」と思って、それに適切な接し方をする。エンパスが強い人なら、そういう気持ちが強くなるだろうが、そもそもその他者が「こう思っているだろうな」は全て私の中の勝手な妄想だと結論づけることはいくらでも可能である。私の「こう思っているだろうな」がその通りだったと相手から聞くことはできるが、それが他者の言葉である限り、その言葉の真偽も究極的には実証できない。

 私たちにとって真実が何であるか、私が判断するしかない、だから、エンパスもサイコパスもありえるのである。「人生設計」を、唯物論的な考え方においては「生まれてから死ぬまで」、スピリチュアルな考え方において「死後も含めて」、考える際に、真実というものがどうしても必要になるのである。
 自殺することに関して、唯物論的に考えると全くそこにはマイナスがないのだが、スピリチュアリズム的に考えると、マイナスがでてくる。それでもって、自殺衝動というのは、論理的思考ではなくフィーリングであるから、同じく論理的思考ではないフィーリングに近い考え方が対策としてよくきくのである。しかし哲学は「何が真実かは、わからない」という考え方に戻し、スピリチュアルへの懐疑心をそそる。ただ哲学は比較的フィーリングに訴えかける力がなく、どちらかといえば論理的思考の存在なので、論理的思考は「社会常識」を扇動するみたいな方法でしか味方を増やすことができない。






最終更新日  2019.10.20 12:35:14
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