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2008.01.07
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カテゴリ:表沙汰

 死と痛みをもまた分かつ事にてそれぞれ個々が生まれた。幼い者には死と痛みは全く以て同じものである。しかしながら性的行為と性的刺激を分かつくらいの事が出来るようになっているならば死と痛みの分別も出来て不自然では無い。
 痛みを人は分析出来ても死は未だ決して分析することができていない。死の核は主体的体験でありながらもそれを超越する宇宙的性質により人の主体以前の問題に帰してしまう。死は客観的にしか観測出来ない。
 芸術といふものが主体的な活動ならばそれは誰かにとっては見ることすら叶わぬだろう。客観的に「その芸術が行われた」と伝聞で終わっていく。そういった芸術は死である。死んでいるのである。そして生的な芸術があるとしたらそれは食べたら美味しいのかもしれない。成る程美しく彩られた食事の皿こそ偉人を凌駕できる最大の芸術のひとつである。しかしやはり刹那に消費され残る事は無い。成程未だ死と裸で抱き合ったままの生はそうやって出来ていた。
 僕のressentimentの指し示す処に因っては芸術は、誰かが誰かを自画自賛することに過ぎない。建物や風景を布で覆ったところで自画自賛者が現れなければ布も行き場に大層困ることであろう。
 「美は・・・美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ」(引用)。近頃の芸術の主成分カリスマ性であり、カリスマ性との同盟であり、カリスマ性との友好関係を保つ為に芸術はひどくブリっ娘態度で媚びを売りつづけているのである。カリスマ性は最大の自画自賛者である。しかしながら、カリスマ性との連携は芸術の日常を知性的緊張の日々に変えてしまった。
 又僕のressentimentの指し示す処に因っては芸術は、現代芸術の幾つかは、知ったかぶりのなんちゃって異星人なのである。それは、カリスマ性にあまりに媚びを売りすぎた成れの果てであった。異星人、つまり異端知識人のふりをするよりは、人間味のあるブラックジョーク、それも出来れば大層くだらないもののひとつでも言えるようになったらどうか。そうすれば幾らか張りつめた気のひとつに穴でも開けることすら出来よう。






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最終更新日  2008.01.08 01:47:21
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