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2009.12.05
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カテゴリ:表沙汰
 人間は死ぬ存在だと、誰もが信じられない。だけどそれは、死ねば知覚感覚すべて消えてなくなるから死は知覚できないとか、痛みや苦しみは死ではなく生だと、そういう問題もあるけど、それよりも人間が死ぬことを信じてない人は多い。「まさかこんなに早く死んでしまうなんて」「不慮の○○」「被害者の無念」が、テレビショーでよく聞かれる言葉だ。「満ち足りた人生」ではテレビの話題になりにくいというものあるが、不慮の死が起きるのは、あまり人々が死の存在を信じていないからだ。
 昔はともかく、いまは、ヒューマニズムが常識だから、死からは遠ざかっているんだ。別に、死から遠ざかるのは悪いことじゃない。でも、少し大ざっぱな現代のヒューマニズムは、死が絶対悪だ。つまり「質より量」なんだ。「良い人生50年」よりも「悪い人生80年」のほうが、そこでは価値がある。そして、人々は現代の大ざっぱなヒューマニズムに無自覚だと、「悪い人生80年」を目指していることがある。

 ハイデガーが、怖い思想家だなあとか思われるのは、「人間はもっと死を自覚しなければいけない」みたいなこと言ったりとか、ナチスとの関連とかもいわれるかもしれない。でも、ナチスとかひとつだけやり玉にあげるよりか、独裁国家なっていくらでもあったわけだし、たくさん人が死んだ、と公開されている死もあるだろうけど、もっと他の国でおそらく黙殺された大量の死だってあっただろう。表面的、つまり、図や数で表されたものつまり「公開情報」にしか情を持てないということはともかく、それよりも、死が悪いことだ、って言うのは、ある意味では、人間というコミュニティの背後に、何かの力を感じるからだ。
 人間が増えれば、それでいいとか、大人は苦労しても、子供がいればいいとか、未来があれば、それでいい、その後回しの連続で、人間コミュニティというバベルの塔でも建てる気でいるんだ。それは、個人の力じゃない、見えない集団の力だ。
 わたしがしんでも、このこがいるもの、とかわたしの研究を、いつか誰かが大成してくれる、とか。その未来を、みれるわけではないのに。
 それは、人間というコミュニティを信じているから起きる現象だ。そして人間というコミュニティを信じる力とは何か。理性じゃなくて、利己的遺伝子なのか。それとも、利己的遺伝子をつくりあげた何かなのか。

 その人間というコミュニティの力が、現代の「質より量」のヒューマニズムに作用して、個人の幸福が失われることがあるのだろう。わたしが不幸でも、この子が幸せならいい。まあ、「わたしが不幸でも、この子が幸せならいい」で、わたしに幸福がうまれるなら、そこに幸福は確実に存在する不幸とは限らない。でも、見えない概念は、意味が暴走しやすいものだ。現代ヒューマニズムの、量的な生の礼賛・表面的な死の嫌悪、それが薄っぺらいのは、どこか意味が極端になってるからだ。

 そもそも、わたしがしんでも、かわりがいるものって思ってるひとが多すぎるし。(某アニメキャラはキャラの性質上の意味がひとと違うので仕方ない てか某アニメだって、某碇ユイのかわりがいないから某劇場版みたいなあんなことになったわけで)そこのところの、本能のチカラ、ぼくはまだ若いから、あんまり理解できないことだ。脳や理性を凌駕する本能のチカラは、それこそ人間が進化するうちで失われるかもしれない。そんなに近い未来ではないだろう。ゆえに、ぼくはそれを見ることはできない。
 パラレルワールドが存在しても「観測できないから無意味」ならば、それだって、「ぼくが観測できないから無意味」なんだなこれが。そしてそれが人間のコミュニティというバベルの塔の力を越えた、脳・理性という個人主義なんだなこれが。






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最終更新日  2009.12.05 17:55:03
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