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2010.08.11
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カテゴリ:表沙汰
 神は死んだと言ったくせにニーチェだって死んだと、人が言った事をたまに連想する。永劫回帰的な言及に乏しさを感じる解釈ではあるが、この解釈はまちがっているのでなんて言ったら自分だって昔読んだ本で「世の中の現○学の本は解釈が間違っているので、私が本当の解釈をかく」とか言っているのをみて何かすごいイラついたのと同じレベルになってしまう。

 少なくとも、永劫回帰は元祖仏教に近い思想だが、(ここでショーペンハウアーが仏教がとか言い出したら歴史中心主義な悪い癖かと思うが、癒着している状態がもはや普通になってるとおもう)事実日本に元祖仏教はない。一番近いものは、禅宗系だろうけど、基本は大乗仏教だ。浄土も密教もどちらかといえば有神論的な宗教だ。無神論である元祖仏教とはキリストとイスラムの間の距離よりも原理的には遠く感じるものだ。仏教が有神論になってる日本は無宗教でありならがも和の精神や家族や先祖に近所付き合いにと宗教的な取り組みを行う。おそらく、人類の何%かには永遠に神が必要なのだろう。さらにそのなかの何%かは自分が神でなければならない。神が死んでニーチェが代わりに神になろうとしたわけでは決して無い。もうそう思うとしたら、それは(一神教の)宗教家タイプの性格を持っているというだけだろう。どんな世界にも神が居ると信じているのだろうから。

 それがいつまでも心に残っていてたまに現れるのだとしたら、有神論的なニュアンスを見ることができるからだろう。なぜ有神論的な発想に自分が危機を覚えるか、というのも事実そこまでよくわからないもので、何か自分のなかに肯定となるものがなければ生きる原動力がうまれないというのもわからなくもないから、その部分においては人はひとつ自分のなかに肯定が必要で、それが中心に世界の認識が行われる。だから、無神論者にも無神論という自分のなかの肯定がある。無神論という信条に対する神的な肯定があるんだから、それは有神論か、とか言うとメタ有神論とか言うべきかしらないが新しい言葉が必要になってくるので、ただでさえ用語地獄の世の中でそれはよくない。事実、無神論的な神もつくりだせなくもない。メタ論理っぽいものは科学的な実証不能のもとにたぶん非宗教的とみたされるだろうから。

 このような連想とは一種の弊害で、実生活を邪魔する。何かにつけその事を思い出して考えてしまうから。少なくとも睡眠時間とかのバイオリズムに深く影響する。連想が止められぬうちは眠ることなどかなわない。連想力がある人は文献学とか特にやってられないと思う。本を読みながら、何も連想しないでいられるとしたら、それはすっきりとすばやく読むことができるから。ただ、そのうちは、おそらくうわべの知識だけ多く、ただ本を読む目的が、自分が考えるヒントであるとか、自分の考えの多角性を発展させるためのヒントであるとしたら、連想なしでそれはかなわない。ただ、世は教養や思考力よりも量だから、文献の質よりも、文献の権威力とその数のほうが重要視されるのだろう。口では連想が人文の力だとほめながら、事実文献を読まぬ者は人文から外される。
 そういう意味では、現代の人文系は錬金術やソフィストと変わらない。「それっぽく言ってればすべてまかり通る」つまりそれっぽく言えば見る人は信じ込む。称号あるいは権威のあるひとがそれっぽくいえば何でも偉大なのだろう。
 これほどまでに時代はよくなったのに、文献にまつわることにおいて2500年前の弁論術の時代よりもタチの悪いことがあるとしたら、古代ギリシアよりも人文が進歩している事を無理矢理認めようとしていること、そして時代が文献を厳重に保存しすぎたことで、偉人の数が多くなりすぎたことだ。過去の偉人と同じ事を発見したところで、現代では決して偉人にはなれない。ただ何か無意味に共感してみることができるだけで。





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最終更新日  2010.11.01 14:34:59
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