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2012.02.15
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カテゴリ:表沙汰
 何が美であるか、主観と客観の間で結論をみいだしたくなる。実際、美感覚は常に主観である。伝聞で美しいと思うものでも、常にそれを受け入れるかどうかで主観的判断が求められている。
 そこに普遍的な美というものを仮定すれば、果たしてそれは「万人が共通で美しいと思うもの」ということだろうか。そうなると記号論の問題ですらある。「美」という記号を持っている物質が美であり、その物質から美という記号だけをとりだしたとき、美という記号は普遍的な美であると。
 そして、その美という記号の意味は万人にとって同じでなければならない。が、正直そんなものあり得ない。誰かにとって美しいものは常に誰かにとって醜い。美の存在の有無は各々の主体的真理に委ねられる。より俗っぽい「普遍的な美」を仮定することもできる。例えば万人の美感覚の方向性を360度に様々な方向に書き出せるとして、「偶然」その360度全ての方向性(角度)を網羅す物体。そちらのほうが現実的ではない。360度というのはある意味無限である。360の元型を用意するということだが、人の数はある意味無限である。無限に対峙する有限になってしまうから。

 普遍的な美というものは常に現実的な芸術作品ではなく仮定であり、同時にイデア論であったり物自体のようなものであったりする。イデアと物自体の違いは個人的にはウラノスがあるかないかの違いくらいに思えてしまう。(固体にイデアという「真実の姿」があるというところで話が終われば物自体の事であるように思われる。)
 だから個人的には物体と自分の間の真理とは認識だと考えるふしがある。物体を「我」が認識すること自体が物体を物体たらしめている。物体は本来は「物自体」の姿をしているが、認識によって自分の前には「物自体」ではなく「物体」で現れる。物自体を認識しているというよりも、人間は五感で物体を認識する。物体とは物自体のなかの「人間の感覚」を通り過ぎたあとの姿である。
 その「人間の感覚」の差異が普遍的な美の存在を損なう。つまり、普遍的な美の認識というものは、感覚的には、なんとなく、シュレーディンガーの猫の生死を観測以外で認識するという行為に似ている。物体を観測する事無く「真実」を知ることである。20光年離れた星が、例えば「今」その星の場所にその星は無いが、地球には20年前の姿の光が届いている。そのような20年前の星の姿を観測しつつ、「現在の星の場所にいかずに」現在の星の姿(既にない状態)を観測しようとするような事。

 仮にシュレーディンガーの猫の生死は観測以外で知り得ないのでそもそもできないと言ってしまっては個人的にロマンが無いので、まあ「美」は常に主体的で、同時に自分と物自体(これには他人や自分の意志の届かない自分の体の部位さえも含まれる)をつなぐ「個人的な記号」、クオリア問題としての記号論であるという前提において(要は他人と自分の美感覚共有に限界があるという前提)、個人的な普遍的な美とは論理ではなく霊性として扱われる。
 授業でアリストテレスについてやってるときに「霊性」という概念を知ったはずなのだが、アリストテレスと霊性というつながりは探してもなかなか無いので、アリストテレスかどうかよくわからない。が、ギリシャでは当たり前のことといえる。人は世界に霊性を見ていたからである。音楽の力はムーサの霊性をよびさますことで得られる。
 現代の人は、常に霊性、神の存在を「超越者」という言葉にひっぱられてウラノスの奥に想像するし、現代の世界を支配しているローマ以降の歴史がはぐくんできた事なのだろうと思う。しかし霊性の存在はウラノスであろうが自分であろうがどこでも良いのである。はたして霊性という感覚にデカルトの座標(1~3次関数?)は必要だろうか。(現代の座標的方向感覚は、果たしてデカルトからはぐくまれてきたものなのだろうか。)
 仮に、仮にだがこの世に霊性の享受の個人差(ギリシャの伝統的座標でネプトゥヌスで示されるような)があるとして、それが芸術の感性というのを作用する気さえする。要は「外からの非物質的な刺激」の享受の個人差がうまれる(その「外からの非物質的な刺激」の存在する「外の世界」の存在は我と物自体というクオリア・記号論的構造と矛盾しないと思う)。
 ムーサのような霊性を持つ為に特別な儀礼や知恵が必要な気はしない。ムーサの霊性を呼び起こす為の行為そのものが儀礼や知恵となっただけなはず。だからその儀礼や知恵そのものがムーサの感覚ですらあるという事。要は常に答えは自分の近くに浮遊しているということか。あるいは、認識してはじめてムーサとの関係ができる。自分が認識していないあいだ、ムーサが自分の近くにいるかどうかはさだかではない。霊性は常にヴァスバンドゥ的な「唯識」と結びつく。ムーサが変わったのではなく、自分の認識系統が変わったのである。

 ギリシャと仏教には中世や近現代よりもなみなみならぬ哲学の魅力、つまり深淵を感じるが、「霊性」の時代であるのは、ただ単に情報が無いから「霊性」という言葉で全て解決したいという、中世の哲学が人間に理解できない哲学の複雑なところについて「神」という言葉で解決したがったものに似たものとも考えられるが、同時にシュタイナー的な(超越論的)歴史観もいれてみたくてしょうがない。アレクサンドロスの落とし子が、つまりギリシャ哲学のわずかな落とし物が、「ローマ以降」から遮断された土地でヴァスバンドゥのような思想を生んだのではないかと。アレクサンドロスの道がある程度つながっているのは間違いないだろう。ギリシャ哲学にも、ヴァスバンドゥにも、「霊性」のみずみずしさがあり、「根底で同じ」という原理が見え隠れしてしまう。「唯物論的な」宗教・神学のもとに抽象的な黄金比や論理哲学といった「論理・思考主義」的な、1対1の構造による客観主義によって「我」と「他」の関連性(縁起)を失った冷たい風のような哲学のようなものが現れる前の宗教思想が。





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最終更新日  2012.02.17 11:31:30
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