カテゴリ:表沙汰
プライドとは、守るものではなく捨てるものだとずっと考えていた。プライドなんてあっても、何かをする為の妨げにしかならないからだ。プライドの存在は思考における理想である客観的な地平から遠ざかるだけだし、漫画みたいにプライドを守る事が格好良いという概念に格好悪さを感じているからでもあった。プライドは乗り越えるべき壁(欠点、偏見、カルマ)そのものであった。
しかしあまりにもかの心理テストで「ライオン」を選ぶ人と、選びそうな人が周りに多い。「ライオン(プライド)」を真っ先に捨て他の全てを捨てても「牛(食糧)」を最後まで捨てなかった自分は、プライドが高いのかどうかよくわからなくなる。 正直、いろいろなことがらをプライドのせいにしてしまえばとても楽である。好き嫌いが激しいってのはすなわちプライドが高いって事につながるから。あれが嫌いなのはプライドのせい、あれが好きなのはプライドのせい。そう考えると、プライドだらけ。じゃあ、他の人よりプライドが高いってことじゃん。 ライオンと牛はまるで王者(λ?ων)と隠者(十牛図)のようである。食えなくなる事(牛をうしなうこと)を最も恐れている。王がアナクスからバシレウスになったのは紀元前と紀元後の違いであろうか。バシレウスは属格(βασιλ?ω?,βασιλ?ων)ならその字のなかにライオンを含んでいるようである。紀元後の王はライオンを大事にしていたのだろうか。 他人のクオリアは比較しようがない。知とは、認識と解釈である。科学も、神秘学も、宗教もそうだ。同じ対象を認識し、科学で、神秘で、宗教で、解釈をするのだ。だから、クオリアはすべての前提の問題だ。他人を認識し、他人と比較して解釈すると、自分は周りの人よりも食欲が強烈な感じが有る。年の問題って感じはしない。子供の頃より大食であったのは変わりない。仮説として、他人よりも空腹の嫌悪感が強いと解釈している。食以外に優先すべき事柄はそもそも思いつかないのである。 ゆえに、プライドと食が比較できるかはわからない。価値を相対的に見ると、自分には食を何より優先するというプライド原理(先天的性格)があるから。 食が要素だとしたら、プライドは機能にあたる。つまり「食を優先する」の「食」の部分が心理テストでいう牛にあたり「を優先する」がプライドにあたる。数式でいえば、食が数字だとすればプライドは+ー×÷になる。 +ー×÷だけで数字はつくりだせない。つまりプライド自体は実体がない。プライドを優先させるというプライドはあいにく持ち合わせていない。そう考えるとライオンを選ぶ事がパラドックスにも感じて来る。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012.07.07 20:56:00
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