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2012.12.11
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カテゴリ:表沙汰
 ο ανθρωπος φυσει πολιτικον ζωιον
 この"人間は本性(自然)においてポリス的動物である"、というアリストテレスの言葉が、政治参加運動、アンガージュマンのように受け取られるとしたら個人的には悲しき事態である。

 ギリシャ語が単語ひとつとっても常に大いなる深淵で考えだしたらきりがない、という以前に、先ず政治に参加して政治について議論しよく知ってる者が偉いという思想傾向からその解釈はうまれるだろう。それは、プロダゴラスの言葉でもヘラクレイトスの言葉などでも政治的に受け止めようと思えばいくらでもできることで、まずギリシャ=民主主義という先入観から、ギリシャ=民主主義=現代と同じ、という構図をつくりあげ、今の人のように社会学的なアンガージュマンがギリシャでも中心であったという構図ができあがる。
 全部否定はしないが、全部肯定はもっとしない。古代ギリシャにテレビは無いので、お昼のワイドショーは無い。
 個人的には、古代とはユングの「集合的無意識」「シンクロニシティ」「元型論」のような世界観が論理的に考えられていたということが肝要で、現在のようにそれらを全て無視できる常識をもつ世界観のおしつけを行うことが古代への偏見であるようにも思える。
 徹底した"大人"主義のアンガージュマンとはある種徹底した無神論か有神論でも徹底した父権制のもとで発想が可能になるのだろうと思う。

 何故ひとは大人は子供は、社会人は、先輩は後輩は、と主張するのだろうか。非パンテオイ的な、非母権性のもとで「優越感」という実体の無いプライドのヒロイズムがそれを形成しているのだろうか。やはり他人と自分を点数的な優劣で「比較」することは人間の原罪にほかならないのだ。
 アリストテレスが哲学者で、(よりマニアックで非実証的な説では)秘儀参入者であるということを全て無視すれば、政治議論と流行順応に優越感を見いだす大人の仲間入りはできるかもしれない。

 正義とは、常に相対的な世界の地平上に各々1つ1つ存在する主観的真理の1つである。世の中を良くする、とはその主観的真理の1つが世界観を変革するということでもある。大人のふりをすることで精一杯な大人は、年下の学生にそんなことを言われたら、"そんなことは分かりきっている"と言うかもしれない。

 しかし、彼らは偏食家みたいなもので、正教徒と異教徒の世界に生きているのである。政治参加、それは人を「仮言命法」の行為で考える。前述の、政治参加は社会的人間の善である、義務である、それをする者が立派な大人である、と考える人間にとっては、常に政治参加は「ねばならない」「社会人はこうあるべきだ」って感じの使命的な「仮言命法」なのだ。(まず、社会というものを"κρινω"分解的に相対的にその人は考えることができていない。)
 しかし、世界を考える行為は「定言命法」でないと、よくない、とはいっても具体的に何がよくないかと言えば、そこに非創造的な邪念が入るからにすぎない。プライド性維持の為の政治参加は、完全な「仮言命法」で、それが、気持ち悪いから、テレビと政治議論が好きな大人の「仮言命法」の政治参加主義にいらいらするというだけの話である。

 何故そうなるか、それをどう解決すればよいのか、を考えると、やはり創造性つまりポイエーシスを徹底的に排除することが日本の社会的美徳と教育的美徳のひとつだったから、「仮言命法」の不気味な義務教育によって「仮言命法」の世界観になったのではないかと考えるようになる。ポイエーシスの力を無意識下で卑下しない教育があればよかったんじゃないかと。
 シュタイナーの教育論が、ポイエーシスの力を育てることを最も重視しているという発想に、こういう現状からいきつくことになる。


 ずっと居心地が悪かったのは、「善」が唯物論という、より相対的でない世界で議論されていることだ。「観測不可能」の世界への完全な諦めから現代の「善」は出発する。つまり、それはすでにイドラなのである。
 ある体系が、ある体系の認めない世界観の立場を完全否定してから全てを語るという時点で、相対性は失われている。科学者が宗教を知らず、宗教者が科学を知らずに、各々を全否定している、お互いがお互いを善なる正教徒と悪の異教徒と見なす2つの絶対主義同士のぶつかりあいである。
 それらの似たものどうしの2つの絶対主義の立場から「善」を構築していくことが、居心地の良いものであるはずがない。

 結局、世の中は解釈(ρητωρ)だ。キルケゴールが言う、超越的存在を信仰する為に不可欠な「非論理的飛躍」のようなものをつくる能力が、解釈でもあるのだ。そして、理性、ロゴス、解釈、それらは共通するのだ。





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最終更新日  2012.12.14 09:07:24
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