カテゴリ:表沙汰
Mass Anasthesia - Mediavolo 昔から変わったのか、よくわからない。数年前の記憶もどんどんなくなっていくし、思い出せもしない。 思い出せない以上は、その数年前に居たのは自分とは違う人間なのか?と、思い込んでしまうけど、実はそんなに変わっていない気もする。 やってる事の変化は、場のエーテル(ギリシャ語で空気)に依存するだろう。 勿論、そうであるひとと、そうでないひとがいる。ただ、自分に関しては、それが激しいだけだ。 彼女に言われて、昔の日記をみた。 ああ、昔、絵描いてたなあ、とか思う。 その上で、思ったより変わってないな、とか思う。 忘れていたから、場のエーテルが180°違う今、人間的にも180°違うんじゃないか?とか錯覚していたが、そこまででもない。 今の大学では、確かに、創造性とは極めてかけ離れた場所なだけあって、何の絵のインスピレーションも受けなくて、前の大学みたいに、うまく描けない。(実際、ほとんど家ではなくて大学で描いたものだった。それが無いのだから、描けるわけがない。) この間、彼女の展覧会を手伝った。確かに、ああいった場なら、自分もまた描けるのかもしれない。ただ、確かに、自分はいつも常に、誰かとは違う。 別のときに、別の友人と、かつての大学に通っていた場所へ、カラオケに行ったが、懐かしい、ということを差し引いても、その場所のエーテルが美大生的で、今には無いものを感じた。ただ、美大生的エーテルが全て一致するとも限らない。当然、今のエーテルもまた、一致していない。両方に一致しないものが孤独に存在する。 孤貧夭では、"夭"はまだわからないし、"貧"はいまのところむしろ逆、普通の人に比べれば、多くの人とはわかりあえないという、極めて軽い"孤"があるのか。"孤独〜には慣れて〜いた〜むしろ望んでいた〜♪♪♪"なんて言う気はないが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.07.16 14:14:45
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