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2014.06.08
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カテゴリ:表沙汰
 恐怖、支配、善悪二元論、
 それらは同じ源の象徴をもつだろう。
 自らが、善の城塞のなかで
 そこの外に悪の敵が居るという発想が
 支配者と被支配者の源だろう。
 善の城塞のなかに自分が居ないということが恐怖をうむ。
 そうして自ずと人は城塞の支配者に
 支配されることを望む。

 だから人を支配しようと思う人は、
 その善の城塞の住民を増やす為に
 自分から他人の恐怖を、
 善の城塞に所属していない恐怖をつくりだし、
 煽ろうとしたりもする。

 そうして伝承の物語も、
 権力を望む者、支配を望む者によって
 誇大拡大に解釈・翻訳されることで
 善悪二元論化され、情念の物語化される。

 他人を支配する意志は、おおよそ
 イエスかノーの二元論を
 無意識下であれ意識下であれ持っている。
 イエスでもノーでも良い多なるものでは
 人を支配することができないからだ。
 イエスかノーの物語は情念の物語だ。
 善悪と報復の物語だ。
 彼らの生もまたその物語の如くになる。

 多を滅ぼし、悪を滅ぼすことで
 善にだけ集中しようとする。
 恐怖を原動力に、善以外のものを全て見捨てることで
 ひとつのものに力を集中しようとすることが城塞を拡大させる。
 人の力は無限ではないから、配分が必要だ。
 多に配分するのと、一に配分するのとでは
 単純なエネルギー量が違うという問題だ。

 ただ、一なるもの以外の縁を切ることは
 すべて縁で繋がっている世界そのものを否定していることでしかない。
 自然・世界の否定的解釈は
 仏教の諸行無常よりよほど激しく単純・非物質的に
 西ヨーロッパの思想哲学の表舞台に常に現れている発想だ。
 表舞台でないところには、自然の肯定が多く存在するのだが。

 恐怖から自らの所属する善以外を切り捨てる支配と
 情念を越えて全てを受け入れる隣人愛とは正反対のことだが
 教義の割りに、宗教の歴史はいまのところ支配の歴史と変わらない。
 支配こそ隣人愛と考えているようにしかみえない。
 隣人愛よりも皆が分かりやすい情念を強調する傾向や解釈も
 やはり支配と権力のためなのか。





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最終更新日  2014.06.09 09:25:44
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