カテゴリ:表沙汰
生きているけど人生は
目の前に垂らされた食物に向かって 永劫に車輪を回し続けるハムスターないし鼠みたいなもので あるときそれに気づくけど、 それでもそこに意義をもたせたくて 昔から人々は哲学とか宗教とかって考えて 一生の労働に対して、死後の報酬でこたえてくれるような そんな存在がそばにいることを人々は望んできた。 けれども、私たちは世界に放り投げられた存在で 何ももっていないし、何も持つこともない すべての現象は例外なく確証がない。 だから、ときどき、不安になってくる この車輪を回す労働に意味はなく 目の前に垂らされたものには永遠にたどり着かない。 どれほど宗教的なものが常識である時代でも、 現代日本のようなタイプの常識の時代でも、それは同じだった。 躁鬱が繰り返されるのは、 すべての現象に確証などないからだ。 逆に、報われないとわかっている労働など誰もしない。 そのために、答えは隠されているのだ。 私たちが、報われないという確証もなく 報われるという確証もないまま、 人生という労働が先に与えられているだけ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016.06.18 22:00:53
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