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2017.04.07
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カテゴリ:表沙汰
 やりたいことをやるという問いも難しい。まず、そういう余裕のある環境かどうかが問われる。一生のなかで、そういう時節もあれば、そんなレベルじゃない時節もあるだろう。ただ、現状が一生続くことだけはなく、どこかで人生のリズムの転換点がやってくる。
 人によって、自分が何者かを全く考える必要も意思もない人生もあるかもしれないし、他の何をやってもうまくいかず、そのために自分の正体を知ることにフォーカスされる人生もあるかもしれない。

 幼な子は、家族や友人の趣味傾向を自分もなんとなくそれを享受する。しかし心の何処かでは彼らと共有できない自分だけの趣味傾向を持っていた。
 それがきっと自分の正体なのだが、認めることは難しい。家族や友人の前では、彼らの趣味を尊重し、なんとなく話を合わせなければならない。そのうちに、自分の本性が分からなくなってくるというのが一番デカい。

 更には「やりたいことを仕事にする」みたいなキャッチフレーズが聴こえてくることすらある。でも「やりたいことをやる」ということをどれだけやっていいのかは、誰も教えてはくれない。本当に人がやりたいことをやったら、生活が、社会が、倫理が、崩壊する。
 世界のどこかではそれをやってる奴もいて、そいつのことを、時に悲惨なそいつの末路を、毎日ニュースで見るだろう。

 良識、倫理と合致した宗教や神秘主義は、その者の「やりたいことをやる」が道徳的であることに人間の悟りや精神的向上を見出す。道徳は絶対的な神の法だ。その道徳の修練は、高僧に最も求められるもので、その道徳が自然と沸き上がってくる精神に、人生の善を求めようとする。
 けれども、そういう超越性を看板にした宗教だって、他者の趣味の享受で、自我の反対のものだ。幼い頃に享受する、家族や友人の趣味と同じカテゴリーだ。
 でも、そういう享受をすべて無しにするとしたら、気づいたら自分の生きる目標が無くなってしまう。

 だから、自分に自分の正体を聞きたくなる。でもどこからその声が湧いて来るのか。他者の趣味の享受のために、すっかり聞く耳をなくしてしまった自我の、仮にその声を聞いても、倫理のそぐわなければ、結局また無視するだけだろう。と自我から返ってきたとして、いや、妥協点を探すのだ、とこちらは返答する。しかしその時点で、妥協という時点で、やはり自我は犠牲にされているのだ。妥協は他者の趣味を享受するために起きている。

 そんな禅問答だ。他者の趣味を享受しなければ、飯が食えない。人間は生きている限り、空腹を人質にとられ、労働を強制される。そして労働は常に他者の趣味の享受だ。労働と自我は対立事項だ。ただ、自我は自分の趣味を享受するために特に何も人質にとることがないから、比較的ないがしろにされるのだ。いやどうだろう、無意識の何かを人質にとっているのだろうか。意識で把握できない何かを、自我は実は見えないけど人質にとっているのだろうか。意識できないストレスや不健康状態の増加とか、悪縁の増加とか、そういう人質をとっているんじゃないか。だからいつまでも自我をかまってあげないと、そういうたぐいのものによる報復が待っているのだろうか。
 だから、他者の趣味と自我の趣味の妥協点を、会議したいところだが、一体誰か誰の願いを叶えるのだろう。本からの知識は常に他者の趣味だから、本屋や図書館にあるものではなく、常に自分の身体と一体になっている自我を本を読むようにコミュニケーションがとれれば良いのだが、なんと問いかければよいのやら。





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最終更新日  2017.04.07 11:32:24
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