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2018.10.22
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カテゴリ:表沙汰
自殺がよくないということを、非宗教的立場、現代の唯物論、現代の常識で証明することは不可能だ。自殺がよくないという主張は、現代のオカルティックな「非常識」の立場からしか論理的に主張できない。
 もし自分が自殺したとして、多くの宗教はその「自殺したいと思うほどの理由」よりも悪い状況に死後なると説く。実際、自殺する理由に反対する意見はそれ以外無理である。

 かなり普通の意見として、もし自殺したひとのことを愛おしく思う人がいるとして、死んでからその誰かが悲しむから、ということや、たとえば死体処理する人が大変だから、といった意見は唯物論的立場からしたら無意味だ。もし普段、絶対的に唯物論を盲信している人が、強い自殺衝動を持っていながらそういったことを考慮し自殺を思いとどまるとしたら、唯物論の教義に反していることになる。
 人間は視点を持つ主体があってその主体が観測することで現象がなりたつ。自殺はその主体の視点をなくすことである。すなわち、誰かが悲しんだとして、その関係者である「私」は死後、主体客体のない無になっているから、誰かが悲しんでいるとして、その人の悲しみを観測し察知するすべはない。唯物論上で、私が他の誰かになることはない。誰かが自分の死体処理において気分が悪くなったり疲れたりしたとしても、やはりその疲れや気分の悪さを観測し察知するすべもない。
 いま考え、発言したり、息をしたりする個性、自我、五感の対象である他者とは区別されるべき自分は、死ぬことで無になる。その考えの上で、唯物論上、自殺は何も悪いことがない。死ねば善悪もなくなるのだ。
 ただ、自殺のために痛みを伴うという事実だけは存在している。自殺への過程だけが問題である。もちろん、当たりどころが良ければ、痛みもなく死ねるのかもしれない。それは確率論への挑戦である。しかしもちろん、自殺の痛みよりも自然死に至る上での病気の苦痛のほうが上になる確率だってある。たくさんの人の病気と死の話を聞いていると、自殺の痛みよりひどい病気の話をよく聞く。その場合はそんな痛みを経験しないように自殺するほうが賢いという結論にもなれる。

 そのような現代常識上の自殺の有様に反発できるのは、前述のように人間の理性の限界、沈黙しなければならない「語りえぬもの」の領域からの、すなわちオカルト、スピ系、霊的なアプローチのみに限られる。その論理では、まず死後の無が一番最初に全否定される。自殺の肯定を止められるのは「死後の存在」それ以外に一切ないと言えるのではないだろうか。
 唯物論的に考えて、もし死んだあと、まるで夢を見ていない睡眠のような状態になるとしたら、覚醒して生きる苦痛を味わい続けるよりもずっとましなのだ。だから「痛み」をはかりにかけて、自殺をしたいと考える。しかし死後も生前の覚醒状態と同じような、あるいは似たような状態が維持されるとすれば、話は大きく変わってくるのである。

 そもそも自殺をなぜするのか?それは他者への被害者アピール、自分の心の中の苦しみを誰にも言えない人が、自分の苦痛をわかってもらいたいという無言のしかし絶対最強のメッセージ・表現手段であるという側面もあるが、基本的には「痛み・苦しみを避けたい」というものが主題である。しかし死後が存在し、自殺によって死後の「幸せ」が損なわれるという論理が入ってきてしまうと、自殺はむしろ「苦痛」を誘発するものになってしまう。今も十分すぎるほど苦しいが、死後ももっと苦しいということになると、自殺するのが賢い選択にならなくなる。
 現代常識の唯物論はそれが事実だとしたら自殺をするのに最高の理論だが、もちろん唯物論は絶対であると誰も証明できない。時代の常識という説得力や多数の意見というものが一見、説得力に味方しているだけで、歴史上たくさん存在してきた宗教のひとつであること以上になることはできない。どんな信条や世界解釈も事実であると証明できるものは何一つない。その時代の常識で、その時代の何らかの便利な道具や必需品をなりたたせている理論的な素晴らしい法則も、次の時代に否定される可能性は必ず存在する。唯物論もある意味世界に多々ある考え方のひとつであるから、世界にあるありとあらゆる宗教の考え方のうちのひとつのようなものだからだ。

 割と説得力のある考え方として、死後人は自分という視点をなくし、世界全体という視点を得ることになるという考え方もある。いま人間は理性や感覚において他者と隔たりを持っているが、死後は自分というものがなくなるので、全部になってしまうというものである。その場合、その「世界全体」がどういう方向性を目指しているのかも問題になる。「世界全体」は何らかの「良い方向への進化」を望んでいるのだろうか?もしそうだとしたら、せっかく苦労して死んだのに、結局そのために人生をやり直させる可能性もでてくる。スピ系によくあるのが、「自殺しても結局また人生をやり直しさせられる」というものだ。これはある意味では、ニーチェが「超人」というものについて、「永遠に繰り返される自分の人生」を喜んで受け入れる者、としたところの永劫回帰のことでもある。そのようなスピ系の世界観からすると、自殺をするものは「超人」になるための試練を受けているようにすらなる。
 すべて死後のことは人間の前から隠されている。そのため唯物論もスピ系も説得力を持ってしまう。臨死体験をした話も、結局は伝聞でしかない。もし自分が臨死体験をしたとして、それは死んでいたわけではなく生きていただけだと言えばそうなるかもしれない。





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最終更新日  2018.10.28 10:57:57
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