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2019.02.20
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カテゴリ:表沙汰
生きる目的をつきつめて考えてみると、死とは何かがそれを最も左右する。
生きているという現象を、人はいろいろと体験し解析するけれど
到達点は皆同じで、死である。

死がある限り、実際のところどう生きてもいいように思える。
どう成功しても、どう失敗しても、最後に全部ゼロになってくれるから。

そこで問題となるのが、死後どうなるかである。
臨死体験、昔からある死後の話、いくらでもあるが、
全て物語で、実際には自分で体験して見なければわからないことだ。

死後どうなるかに関しては、いろいろあれど主に二つに分けられる。

①死後、無になる。日々眠っていて夢も見ていない状態が永遠に続く。一切の痛覚も後悔もない。つまらないとか楽しいとか考えることもない。

②死後、死後の世界がある。そこでは、生前の生き方によって生活が変わる(=カルマ論)。なんらかのその世界の法があって、その法に乗っ取っていない生き方の場合、むしろ死後の世界で苦しむか、生前の生き方を後悔する。

①であれば、より一層成功も失敗もどうでも良い。
どれだけ人に残酷なことをしようとも、助けようとも、平等に一切苦もなく永遠に眠れる。

②においてのみ、人生の生き方が左右される。
だから、①について考える必要はあまりない。
どう生きても同じだから、生き方に影響は与えない。
それに対し、②では、生き方について考え、死後のために努力しなければならない。

②の考え方のなかに、いろいろなカテゴリがある。
②で最も重要なことは、「生前で何をすれば、死後幸せになれるか」である。

その「生前ですべきこと」が様々で、その内容の違いこそが宗教の違いを作っている。
現代の社会的常識は、「生前で何をすれば、死後幸せになれるか」自体考えない、
なぜならその死後自体間違っているかもしれないから。

しかし、それも思い込みに過ぎない可能性がある。
現代社会のその考え方自体も、宗教のひとつつだと言える。
今の社会常識が言うように「死後何もない」という可能性があるのと同じように
「死後何かある」という可能性だってどうあがいても否定できないからだ。
あくまでも、自分が体験するまでわからないから。

そして、いつか来るであろうものについて考えないなど論外である。

いつか来るべきものへと備えることこそが生の意義である。


②で個人的にいま注目しているのは、以下のような世界観である。

死後、人はなんでも叶う世界に行く、そしてそこで生前隠されていた真実を全て知り、
また同時に思ったことがなんでも実現する世界を体験する。しかしそれゆえ飽きてしまう。
そこで、期待感、予想通りにいかないこと、みたいなのを体験するために、
現世という「願いが必ずしも叶わない世界」に戻ってきてしまう。

というもので、実際、これはゲームをやっているような人には簡単にわかる心理である。
得難いものほど、情熱を傾けてしまい、熱中する。
なんでも簡単に手に入ると、それがなくなる。
ゲームを成り立たせているものは、欲望と、それが手に入るタイミング調整である。
いわば死後はゲームのチートモードで、生前というゲームのプログラム自体を簡単にいじれるのである。

そこから発展して、人間が現世で養うべき心は、
「チートモード」に飽きて「ゲームの世界」へ戻ろうという気にさせない方法である。
そのためには「悟り」あるいは心の鍛錬が必要になるということだ。

しかしそのような心の鍛錬は、一体誰が教えてくれるのだろう。

ヒンドゥー教、仏教に現代スピリチュアリズム、
そのような心を得る方法、というマニュアルのようなものはある。
それをたくさん読んで、自分に活かそうとした。生の意義のために。

しかし、現実的にその理想になれるかどうかが問題だった。
少し意識し実践してみたが、いまだに心に振り回されている…。

ひとまずこの問題はここでどうしても終わってしまう。

カントが、『視霊者(Geisterseher)の夢』で超越的なものに関する議論のしめくくりとして
ヴォルテールから引用として
「難しい議論は答えが出ないからやめだ、さあ目の前の現実的な仕事に取り掛かろう」
というような台詞で終えた、答えが出ないものを一旦保留した、その気分だ。
しかしその答えを、いつかは解決しなければならないのだ。




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哲学が道徳(≒社会常識)を疑い得ないというタブーを指摘したニーチェは学会から追放された。
最も重要な真理は、社会的人間には必ず誤解されるのだろう。
そして彼が言う通り、学問の世界は
小学生の心理みたいなレベルの意味でも、Wille zur Macht「権力への欲求」が支配している。
そんな哲学者たちがいつか訪れる死を想定しているとしても、残された家族とか、その程度だろう。


学問は好きなのだが、それで何か社会的に形をなせといわれれば全く好きではなくなる。
例えばプラトンを読んでいるのはとても楽しく、そのギリシャ語の意味まで考えることも楽しいが、
最新の「プラトン研究」を読むのは楽しくない。
西欧の言語で書かれた研究なんてなおさらである。

そこから、「自分らしく生きる」ことへの将来への不安が生じる。
どれほど「人生の目的」が輝いていても社会性がなく、
飯を食えなかったら人生自体を生きられないからだ。

この世は極論、飯と「人生の目的」さえあればいいのかもしれない。


古代、学問が「秘儀」であって、学問は社会性を持ってはならないとされていた理由がわかる。
社会性を持つと個性が潰され、個性が潰されると学問の意味がなくなる。
そして学問は社会的でなく個人的あるいは相性の良い同じレベルの者たちによるグループ作業によって
おそらく真理に到達できる。

ある人に対する特効薬は、別の人に対する劇毒なのだ。
平均化された世界で、社会的に特効薬にされたものが
その人にとっては劇毒である、そのような人は不幸だ。


+++++++++++++++++++++++



この個々人のヴァーチャルリアリティである世界において
誰かの意見を聞いたりしていると、学問が成立しないように思える。

人は人生というゲームプレイヤーであるが、同時にゲームクリエイターである。

先達であるNPCの助言とお使いではストーリーが進まないようにできている。
もちろん、そういう繰り返されるストーリーをなぞる使命の人もいるかもしれない。

NPCの言う通りにしないことではじめて、
今までにない新しいプレイスタイルが確立するからだ。







フロイト講義〈死の欲動〉を読む (単行本・ムック) / 小林敏明/著


この本、借りればよかった。
でもこの本のなかで散々引用されていた本自体は借りた。





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最終更新日  2019.02.21 10:50:48
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