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2019.03.19
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カテゴリ:表沙汰
全ての集団の無意識下には少なくとも「魔女狩り」風の心理がある。それはつまり、代表者を選んで、犠牲になってもらうことで、平安を得ようとする。その平安は心の平安ではあるが、具体的にその共同体の世界が平和になるかどうかはまた別問題である。

 この世は、人類の一番最初の段階の思想は「善悪二元論」ではなく、後世で善と言われるものも悪と言われるものも、どちらも混ざり合った世界だった。そこから善と悪の区別が神々のなかに生まれ、やがて唯一の絶対善のなかに悪も内包され、最終的にその両方も消し去った。

 しかし、善悪二元論の「無意識」はひとのなかにまだ残って居る。この善悪とはケガレと清めのようなものでもある。魔女狩りという発想は、陰謀的にその首謀者がいるとしても、大衆的で扇動的な心理感情は完全にケガレと清めに基づいている。

 善悪二元論の無意識がひとのなかに残って居るということは、魔女狩りの無意識がひとのなかにまだ残って居るということである。
 あるものを悪いと決めつけ、それを認識し避ける、あるいは滅する、という行為だけで、ひとは「善とともにある」と感じることができる。ニーチェの「力への意志」の「力」もそこでいう「善とともにある」に近いものだ。

 例えば、国が悪い、政治が悪い、そういう意味から、あの人がいなかったら、私は幸せになれるのに、そういったものが、「悪」であり、それがなかったら「善」になる、という単純な構造である。
 その「悪」は魔女であっても、異教徒であっても、オカルティストであっても、ユダヤ人であっても、ナチスドイツであっても、政治家であっても、外国人であっても、なんでも良い。
 それをタブーとし、避けるか排除することができれば、人は「善とともにある」感覚に陥る。そこに「悪の役割」みたいなものがある。

 学会のような場所には、そういう相対的思考ができる人が多い場所かと思えば、やはり「集団」の宿命か、むしろ「タブー」となる「悪」だらけである。「魔女狩り」と呼ばれる行為は、いまはヨーロッパだけでなく世界中で似たような「異質なものへの排除とそこから得られる平安」のための排他的行為全般にさされるようにはなった。

 しかし、歴史はいつもその魔女狩的な無意識が集団のなかに発生し、歪められるものだ。「私たちは、前よりもよくなっている」と思い込みたい、というニーチェが言う「力への意志」が人間の原動力となっているから、「前よりもよくなっている」ためには「前が悪い」必要がある。
 歴史が常に昔より進歩しているという「前進史観」のためには、過去はすべて蔑まれなければならない。そうすることで、現在が「善」となれるからだ。

 だがもちろん、その逆の古典主義、あるいは「昔は良かった、昭和は良かった」みたいな「過去への栄光」みたいな無意識も、人のなかには共存しているのである。その心が、今度は自分の若い頃や、若い人たちを美化してしまう。
 当時は当時で「こんなひどい時代だ、未来はもう少しマシに違いない」と思いながら若い頃をすごしていたはずなのに





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最終更新日  2019.03.27 12:15:03
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