《ひとりごと》まとめ(2020/12/16~12/31)
本日は、2020/12/16~12/31の《ひとりごと》を、纏めて掲載いたします。2020/12/16《僕は、ネットヒーローになってはイケナイ!》うっかりミスで後悔に身悶えするよーでは…やはり、《仏法の入り口まで案内》するとゆー《お役目》を果たしていくダケだ。・ソレと…なんでか、そーゆー身悶えの後に、良さげなおハナシがどんどん浮かんでくるのだから…!2020/12/17《今がその時だ…ゲッターロボじゃナッシング!》ミーコさんの《お慈悲のままに》は、2020/12/15の記事《「今、この時」にやることをやる(“ Now! At This Time”,Do What You Should Do)》をば…↓飢え来れば飯を喫し、困(つか)れ来れば即ち眠る/大珠慧海・お腹が空けばご飯を食べて、眠くなったら眠る」・それがこの言葉の意味です。当たり前ですね。・唐代の大珠慧海(だいじゅえかい)が「道の修行にあたっては何か工夫を用いますか」という質問に「ある」と答えて、その内容について語った言葉ですが、私たちが常日頃行っている「当たり前」とは違います。・私たちはご飯を食べても、気もそぞろに考え事をしていたり、床についても「明日が心配だ」と眠ることができずに悶々としていることがあります。つまり、本当の意味で食べたり眠ったりしていないのですね。・一瞬一瞬のなかで、いまやるべきことに集中する。食事をするときはただ食事をする。眠るときはただ眠る。それができれば修行も進むだろうし、生活そのものが禅となるのだということです。・悩むときはしっかりと悩み、笑うときはしっかり笑う。老いてくれば、しっかりと人生を生きる。それを心において毎日を歩いていきたいものです。・【『老いを生きる 仏教の言葉100』】・(ココからミーコさんのコメント)ここで書かれていますように、自身のことに引き当てても、ご飯を食べる時や眠る時など、気もそぞろなことがよくあります。一瞬一瞬に集中していない証拠です。・確かに一寸先は闇であり、世の中は「今」よりほかはないのですから、今の一瞬に集中することの大切さがわかります。・「『今、この時』にやることをやる」。「努めて意識して、実践したい言葉です(This is the phrase which I try to be conscious of and carry it out.)」。2020/12/18《南無阿弥陀仏のはたらきに気付かさている人が(ry》手品師さんの《手品師》は、2020/12/14の記事《浄土真宗の信心》をば…↓親鸞聖人は供養のために念仏したことはない、と仰っています。浄土真宗において「南無阿弥陀仏」の念仏は、私が称えるものでありますが、阿弥陀さまのはたらきが私を通して現れてくださったものだと受け止めます。・阿弥陀さまのはたらきであるお念仏を、私たちの都合によって「供養」のための「手段」として用いることはできないのです。そのことを親鸞聖人は、(先ほどの言葉に続いて)次のように仰っています。・ わがちからにてはげむ善(ぜん)にても候(そうら)はばこそ、念仏を回向(えこう)して父母もたすけ候はめ。(浄土真宗聖典 註釈版 八三五頁)・【訳文】念仏が自分の力で努める善きおこないでありますなら、その功徳によって亡き父母を救いもしましょうが、念仏はそのようなものではありません。・浄土真宗のみ教えは、人は亡くなれば、阿弥陀さまのはたらきによって浄土に往生させていただき、さとりを開き、阿弥陀さまと同じように私たちを導いてくださっているというものです。ですから、何かのため、たとえば亡くなった人のために特別に「供養」するということはありません。故人を偲びつつ、生前のご恩、また、いまは仏さまとして見守っていてくださることに感謝して念仏する中で、私たちが阿弥陀さまのみ教えを聞き、諸行無常の世の中を精一杯生きていくことこそが大事なのです。【令和版 仏の教え 幻冬舎 大谷光淳 P99?P101より】・(ココから手品師さんのコメント)ここで、「人は亡くなれば」とありますが、あくまでも、『生前に阿弥陀さまから「信心」を賜わった人』ということは、おさえておかなければなりません。死んだら誰もが仏さまになるのではありません。とても誤解されやすいところです。・「信心」とは、浄土真宗辞典によりますと、「仏の教えを信じて疑わない心」とあります。換言しますと、阿弥陀さまの「南無阿弥陀仏」のはたらきに気付かされている、ということです。・つまり、「人は亡くなれば」の箇所を丁寧に説明しますと、「いま、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かさている人が亡くなれば」となります。肝に銘じておきたいところです。・おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏2020/12/19《すべてが当たり前でなく…》手品師さんの《手品師》は、2020/12/15の記事《すべてが当たり前でなくありがたい》をば…↓思えば、いままで「当たり前」だと思って過ごしていた日常は、貴重な、「有り難い」毎日だったのではないでしょうか。また、自粛生活を経験してみて、これまで私たちがほんの少し出歩くだけで、いかに多くの人と接触し、つながりを持って暮らしていたかをお知りになったと思います。・そういう気づきこそが仏教的な視点からでてくるものです。朝起きて仕事に出かけていく。いろいろな人と交流する。休日には自由に外出できる。桜が咲けばお花見に行き、ゴールデンウィークやお盆休みを利用して故郷に帰省できる。自粛生活中にできなかったこれらのことは、本来すべてが当たり前でなく、「有り難い」ことだったのです。外出すれば路傍の花が、いまのあなたは美しく見えるでしょう。・このように、これまで当たり前と思い、なおざりとしてきたこと一つひとつを見直していく価値観の転換が、いまこそ求められます。【令和版 仏の教え 大谷光淳 幻冬舎 P17より】・(ココから手品師さんのコメント)新型コロナ禍の影響で、いままで当たり前のよう出来たことが、できなくなっている現状をみますと、本来すべてが当たり前でなく、「有り難い」ことだった、ことに気づかされます。・阿弥陀さまの「南無阿弥陀仏のはたらき」においてはいかがでしょうか。南無阿弥陀仏のはたらきは、いま・ここで・わたしにはたらいています。(いま・ここで・わたしが、)そのはたらきに気づかされることは、とても有り難いことなのでした。・おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏2020/12/20《クリスマス?》とくよしみねさんの《とくよしみねの「なぜ生きる」》は、2020/12/15の記事《クリスマス》をば…↓もうすぐクリスマスです。・真宗門徒としてクリスマスをどう過ごすのか悶々とします。・恋人や子供がいる場合、普通の家庭行事として皆で楽しくパーティを開くことは問題があるのでしょうか。・原理主義的に言えばキリスト教の信者でもないのですから、クリスマスパーティなどもってのほかです。・しかしです。・ここで大事なのは宗教的行事としてのクリスマスと単に皆と楽しむためのクリスマスと同じかどうかです。・既に世間一般に広がっているケーキ屋さんなどが主体の商業ベースに乗らされた行事として参加することは悪いことなのか。・皆で楽しくお食事をし、プレゼントを交換するのはなんとなくうきうきしますし、楽しいのです。・町中では軽快なクリスマスソングが響き渡っています。・テレビもクリスマスを煽りますので、彼女や彼氏がいない人は寂しい思いをします。・正直一人で過ごすクリスマスは辛いことかもしれません。・やはりクリスマスは誰かと楽しく過ごしたいと思うのは皆と同じことが出来ないことに対する同調圧力がかかっているのでしょう。・これは本当にやっかいです。・ここに無宗教と日本人が言われる根拠があります。・伝統文化の伝承に対してあまり執着が無いのです。・実際私の住む町でもいくつかの伝統行事が行われなくなっています。・だいたい過去の天皇が信仰してきた仏教を明治時代に捨ててしまったのですから。・それをなんとも思わない国民性はいかなるものか、考え込んでしまいます。・ヨーロッパやアメリカを中心としたキリスト教の国では、クリスマス前後はお休みですので家族で過ごすことを基本としています。・また、教会で賛美歌を歌ったりしています。・とにかく日本のお正月のように家族で過ごす大切な時間と言えるでしょう。・日本ではクリスマスはお休みでもありませんし、主に若者や小さい子供のいる家族のための行事と言えるかもしれません。・だからそんなに気にする必要は無いと思うのですが、やはりこういうところから文化や風習が変わっていくのだなと思います。・なぜなら100年前にはこんな行事はほとんどなかったのですから。・「メリークリスマス」と皆で言いながら乾杯をすることは本当に気にしなくても良いのか、いつもこの時期になると悶々とします。・そう言いながら私はケーキを食べる日として毎年行っています。・南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏2020/12/21《ココんトコ、ドタマ痛めるコトばっか多くて…》グループトークでの勘違いによるウッカリ失言もあって、当面は発言を控え、ストーリーテリングに専念なう。2020/12/22《まかせる》手品師さんの《手品師》は、2020/12/20の記事《まかせる》 をば…↓「仏(阿弥陀)さま のほうが 心配するな私がシッカリしているから 俺に まかせとけとおっしゃってるんですよ だから『ありがとうございます』と いいなはれ いえなんだら それでもええわ それで ええまかせといたら ええんだそれが 『まかせる』 ということや」・梯 實圓 ・【生きて死ぬ力 石上智康(いわがみちこう)中央公論新社より】・(ココから手品師さんのコメント)阿弥陀さんに「まかせる」ただそれだけなのでした。・おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏2020/12/23《苦しむときは…》ミーコさんの《お慈悲のままに》は、2020/12/20の記事《苦しむときは、しっかり苦しむ(When We Suffer, We Should Suffer Thoroughly)》をば…↓忍辱(にんにく)/法華経・自分に降りかかってくる苦しみに対して耐え忍んで生きなさい。そして、いまやるべきことをやりなさい。それがこの言葉の意味です。・仏教ではこの世のことを娑婆(サンスクリット語で「忍ぶ」の意)と呼びます。つまり、思い通りにいかないことに対しては耐え忍ぶのが、この世のあり方なのです。・ひとりの老後を過ごすことが、たとえ自分の意に添わぬことであったとしても、自分の人生を否定しない。苦しみは苦しみとして引き受けて、そのうえで自分がやるべきことをやる。・すると、思い通りにいかないことは多いけれど、実はこんなことができるのではないかという発見が生まれてきます。苦が苦でなくなっていくのですね。苦しむときにはしっかりと苦しむことが、結果的に苦を楽に変えていくわけです。・ひとりの老後もまたよしという瞬間は、そこに生まれてくるのです。『老いを生きる 仏教の言葉100』・(ココからミーコさんのコメント)娑婆と呼ばれるこの世は、思い通りにいかないことに対しては耐え忍ぶのが、そのあり方であると言われます。・つまり、「苦しむときはしっかり苦しむことが、結果的に苦を楽に変えていくことになるからだ」と教えられます。今かかえている苦しみから逃げずに、受け入れていくことが求められるのですね。前々回書きましたが、「自分の気持ちと仲良くする」ことだとも言えるでしょう。・※忍辱(endurance);[仏] 六波羅蜜(ろくはらみつ)の一つ。もろもろの侮辱・迫害を忍受して恨まないこと。『広辞苑』2020/12/24《YouTubeの収益て…》オークション形式てコト、はじめしゃちょー…もとい、初めて知った。…てなコト、広告ドコロか、超獣戦隊ライブマン…もとい、ライブ配信すらできる身分(のYouTuber)じゃナッシングな当方の言えるよーなコトじゃナッシングだが…orz2020/12/25《自信教人信…南無阿弥陀仏…》久保龍雲先生(浄土真宗本願寺派)がリツイートされた、青木新門先生のツイートより…↓人に法を説こうとされるなら、まず願船にお乗りになって歓喜地に渡られてから発言されてはいかがでしようかと言いたくなる。あまりにもおかしな布教師が多過ぎる↑(対する、久保龍雲先生のツイート)浄土真宗における布教者の理想として、私は2点あると考えています。・1、本願疑惑心を除かれた人(他力信心を獲得した念仏者)であること・2、正確な教義理解に基づいて法を説くこと・未信のまま布教をするのは、フランス料理を食べたこともないのにフランス料理の評論家になるようなものでしょう。・本願疑惑心を除かれたかどうか曖昧な布教者は、こちらのお聖教のお言葉をよくかみしめて頂きたいと思います。↓- - -信もなくて人に信をとられよとられよと申すは、われは物をもたずして人に物をとらすべきといふの心なり。人、承引あるべからずと、前住上人(蓮如)申さると順誓に仰せられ候ひき。「自信教人信」(礼讃 六七六)と候ふ時は、まづわが信心決定して、人にも教へて仏恩になるとのことに候ふ。(御一代記聞書)2020/12/26《生まれてこない方が良かった?》手品師さんの《手品師》は、2020/12/24の記事《反出生主義》をば…↓南無阿弥陀仏の視点からしますと、「私は生まれてこないほうが良かった」という反出生主義的な考え方はありえません。人間に生まれてこなければ、仏教は聞けませんし、南無阿弥陀仏のはたらきに気づかせられることはないから、です。私において、反出生主義の思想といいますか考えは、まったくもってナンセンスなのです。・おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏2020/12/27《求めないコトが布施になる》ミーコさんの《お慈悲のままに》は、2020/12/25の記事《求めないことが布施になる(It Is an Offering to Others Not to Demand)》をば…↓布施というは不貪(ふとん)なり。不貪とは、むさぼらざるなり/道元・仏教では「布施」を実践すべき徳目として薦めています。他人に施しをするというのが布施なのですが、金品を施すだけが布施ではありません。「和顔愛語」もまた布施の一つです。・自分が手に入れないことも布施である。そう説いたのは道元です。「布施というは不貪なり」というのはまさにそういうことで、必要以上に求めないことが、相手に施すことになるということです。・たとえば電車で席を譲るのは布施ですが、正直タイミングが難しいものです。道元の布施とは「自分が座らない布施」です。自分が座らなければ、相手に座ってもらうことができる。それが布施になるということです。・何かを求めたり期待するのではなく、相手が笑顔になることを考える。相手が感謝してくれなくても、布施の心で付き合う。・人間関係もそのように心がければ、相手も自分も気持ちよくなってくるのではないでしょうか。【『老いを生きる 仏教の言葉100』】・(ココからミーコさんのコメント)仏さま方は布施の気持ちを大切にされました。もし、施す財物がないとしても、上記に書かれていますように、電車で席を譲るのも「自分が座らない布施」だといわれます。因みに仏教では「無財の七施(財物がなくてもできる七つの布施)が説かれています。その中で、席を譲るのは「牀座施(しょうざせ)」という布施です。・私たちは、人に物をあげた時、その見返りを求めることがよくありますが、仏さまの説かれる布施とは、見返りを求めない布施であることは言うまでもありません。そうすることで、お互いに気持ちよく歩んでいけるのではないでしょうか。・※布施というは不貪なり。不貪とは、むさぼらざるなり(An offering is freedom from avarice. Not to be greedy is not to devour.)2020/12/28《信心があれば…》久保龍雲先生(浄土真宗本願寺派)のツイートより…↓「(よくお浄土へ行ってからと言いなすが、そのお浄土に行くには信心がなければ行けません。ここのところをはっきりいたしましょう。)死んだだけでは決してお浄土へは行けないのです。しかし信心があれば死ぬだけで行けます」(大峯顕師)- - - - -浄土真宗者の方々は、もう他力のご信心を頂かれましたか?まだという人は、信頼できる念仏者を探して、疑問をぶつけてみてください。南無阿弥陀仏2020/12/29《FBの友達登録が来ても…》折角承認しても、やり取りの内に、何人か離れてしまって…つくべきも縁、はなるるべきも縁とはいうものの…僕は、人が好きだから…だからこそ、離れていくのが辛い…orz2020/12/30《お手本にはなれずとも見本に》手品師さんの《手品師》は、2020/12/29の記事《お手本でなく見本》をば…↓清沢満之(きよさわまんし)の弟子で、加賀の念仏者として有名な高光大船(たかみつだいせん)さんは、「人の手本になることはできないが、見本くらいにはなれるだろう」と言ったそうです。・父も母も、たしかに、仰ぎ見てあこがれるような手本ではありません。しかし、ふつうの人間がどう生き、どう死ぬものなのかの見本を見せてくれました。・それによって、私の生き方が定まったと思うと、無意識のうちに結ばれていた絆を感じざるをえません。それは、山ほどの本を読んでも、多くの偉人たちの話を聞いても、決してえられない教えだからです。・年齢を重ねるにつれて、これまであまり意識しなかった、父や母の生き方に思いをいたすことが多くなりました。すると、自分が、父や母、祖父母、顔も知らないご先祖さまとつながっていることが実感できて、心強くなるのです。・ですから、世のお父さんやお母さんに申しあげたいことは、「偉い父、立派な母」の姿を見せなければならない、という思いは捨てたほうがいいということです。・それよりも、無理をせず、ぶざまな姿やみっともなさや、弱さをさらけ出して見せるほうが、大事な財産として子どもの心に残る。【こころの相続 五木寛之 SB新書 P56、P57より】・(ココから手品師さんのコメント)「人の手本になることはできないが、見本くらいにはなれるだろう」という言葉、すごく気に入りました。私自身、家族をはじめ人さまのお手本となるような生き方はできません。無理です。意識してお手本を演じるより、ありのままの姿をさらけ出して生きていく方が楽です。ストレスもありません。ときには、反面教師としてみてもらうような生き方は、人間本来の姿が垣間見え、有用なサンプルとなります。仏教においても、気取ることなく、ありのままの姿で「自分の存在意義」を問うていきたい、ものです。・おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏2020/12/31《イイ加減》ミーコさんの《お慈悲のままに》は、2020/12/30の記事《「いい加減」が、いい人生をつくる(‘Being Moderate in Everything’ Gives Birth to Good Life)》をば…↓中道/仏教語・料理は音楽にも似ています。甘さが勝っても、塩辛さが勝っても、おいしくありません。「いい塩梅」が大切なのですね。・頑張りすぎることは、この塩梅を無視して料理に塩を入れるようなもの。それではたのしむこともできませんし、身体もこわしてしまいます。・世間を見渡せば「頑張れ、頑張れ」の大合唱ですが、振り回される必要はありません。自分がいまできることをやる。それがいちばん「いい加減」なのです。・もともと人生とは、思い通りにいかないもの。・老いることからも、病気になることからも、死ぬことからも逃げ出すことはできません。・苦しみを抱えて生きるのが、私たちの本質。つまり、人生には塩で下味がついているのです。いま以上に頑張る必要はありません。・世間を気にせず、明日を気にせず、いい加減に生きましょう。頑張ることより、楽しむ時間を使うことが、喜びを生んでくれるのです。【『老いを生きる 仏教の言葉100』ひろ さちや[監修]成美堂出版】・(ココからミーコさんのコメント)仏教で言う「いい加減」の意味は、「良い程あい。適当。ほどほど」です。『明鏡国語辞典』また、仏教語の「中道」という意味は、「[仏] 二つの極端(二辺)すなわち有・無・断・常などの対立した世界観を超越した正しい宗教的立場。また、快楽主義と苦行主義の両極端を離れること」です。『広辞苑』・※いい加減に生きたいものです(I’d like to live a moderate life in everything)おまけとか《HGストラクチャー…だとぉ!?》プレミアムバンダイ限定販売なんだケド、ガシャポン(バンダイの登録商標)の怪獣やウルトラヒーローを絡めて撮影するためのミニチュアセット…ソレが、《HGストラクチャー》!監修は、平成ガメラシリーズやシン・ゴジラの美術監督を務めた三池敏夫氏。ゴジラとガメラとの両方に携わった三池氏だからこその、その両方の撮影環境の違いを知ってる三池氏だからこその、こだわりの逸品となっております…つっても、プレミアムバンダイ限定で、税込7700円…orzまーアレだ…拙ブログ《ソクタッヘ王国物語》の撮影には合わナッシングなコトダケは、事実にして真実である。(三池氏のインタビュー記事へのリンクは、コチラ!)