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マックの文弊録

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2006.08.05
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カテゴリ:IT世界の話


◇8月4日(金曜日):旧文月十一日(乙丑):京都北野天満宮例祭、土用二の丑

然科学、特に基礎科学の分野での成果は先ず人間の現実生活には役に立たない。理論物理学などと云うものもその一つだが、役に立たない最右翼は純粋数学である。純粋数学者は自らの研究課題が金輪際人間の実用には適さないことをむしろ誇りに思うほどだという。

際純粋数学と云うのは、数と云う世界に繰り広げられる思想体系のようなものらしい。武器は人間の脳の中に構築されている論理性である。つまり純粋数学は、なんだかInner Worldを追求する壮大なゲームのような印象を持っているが、実は僕の専門外のことでもあり、本当のところはよく分かっていない。

用を前提に研究された数学は暗号理論だけであり、それ以外の数学分野での理論の発明(恐らく純粋数学での成果は発見というより「発明」と呼ぶほうが妥当だろうと思うのだが)に至る過程は、実用など意識しない、或いはいっそ無用を意識しつつ、今までもそしてこれからも進展していくものなのだろう。

うして出来上がった数学理論はしかし、人間の脳の中で極められた論理思考体系であるから、結果として他の分野で人間の道具になり得るのである。実際、完成当初は何の役にも立ちそうになかった純粋数学の諸理論は、物理学や生物学の世界、或いは経済学や通信工学、ソフトウェア工学の世界で「道具」としての本領を発揮し、それぞれの学問や実学の飛躍発展に大いに貢献している。

学に較べれば他の基礎科学、つまり物理学や化学、天文学、生物学などは、自然界に具体的な研究対象があるために、発見結果の検証や新理論体系の建設に際しては実証性が必須条件になる。だからある意味では純粋数学よりは「身近」に感じることが出来る。それでも基礎科学分野での発見は、当初は「役に立つこと」を前提に為されるものではない事は、純粋数学と変わりはない。

子の構造が理解されるようになり始めた頃、新聞記者が「一体そんなものを研究して、何の役にたつのか?」と問いかけたのに、物理学者(誰かは忘れた)が答えて、「生まれたばかりの子供に、君はどういう大人になって世間の役に立つのか?と訊ねるようなものでしょう」と云ったのは有名な話である。基礎科学の進歩というのは、人間の認識や世界観の拡大・深化であるといえよう。だから本来基礎科学は相対的に哲学的な性格を持っているのである。

西洋の場合、自然科学は哲学に属していた。これは西洋の古い大学の歴史を見ても、ニュートンやデカルト、ライプニッツ・・・など、今で言う「自然科学」の分野での巨人達が、極く当たり前のように同時に哲学者でもあったことを見ても分かる。博士を英語でPh.D.というのも同じ理由である。物理学の博士でも、天文学の博士でも、数学でも、文学でも、すべて「哲学博士」と呼ばれるのである。

かし、我国では明治の初めの頃、西洋先進文明の吸収を急ぐ中で、Scienceに「科学」という漢字を当てた。科学と云うのは「専門毎に細かく分科して学ぶ」という意味である。つまり日本人は「科学」と云う言葉でScienceをくくることによって、本来あった哲学との靭帯を、或いは基礎科学に本来的に備わっているはずの哲学的側面を切り捨ててしまったのである。富国強兵を進める中では、どうしても実学が重要視され、人間の役に立つことが求められる。Scienceを科学と「訳した」のはそういう社会力学が働いた所為だと思う。つまり極言すれば、本来の基礎科学は高級な道楽である。日本は工学面では極めて優秀なのに、基礎科学面では世界に冠たる業績が中々出てこないのは、「科学」という訳語の所為だといっていい。

かし、上の状況は、百年も経った現代に、尚大いに通じるところがあって気がかりである。国立大学が独立行政法人化し、論文の数や特許の数が大学の格を決める指標とされ、大学の財政状態や研究予算を左右するという状況で、「役にも立たなさそうな」基礎科学や、以前にこの稿で紹介した「遺体学」が等閑に付されていくのは、「国家百年の大計」という観点からは憂慮すべきであろう。しかもそういう流れを作るのに働いている力が、百数十年前の「富国強兵思想」と同類のものだとすれば(どうもそのようだ)、我々国を憂う民草としては、警戒すべきであると思うのだ。

学の進展を悪いというのではない。我国での実学の目覚しい進歩は、この極東の小国を世界の先進三極の一つにまで押し上げた。ただ実学はまさに「科学」であるが故に、鷹揚で悠長な自然科学、特に基礎科学と較べれば、「料簡が狭い」。

、東大の先生が、猛毒のハブに困っていた沖縄に、天敵としてマングースを持ち込んだ話はこの例だ。この先生は、色々実験をなさって、ハブとマングースを戦わせると、マングースは覿面にハブをやっつけてしまうことを確かめられた。そして、「これなら、沖縄の人も喜ぶだろう」と、輸入したマングースを沖縄の地に放ったのである。当時は「ハブ対マングース。決死の戦い!」などという見世物も方々に立って、マングースはちょっとしたヒーローだったそうだ。

かし、マングースがハブと相まみえてこれを誅殺するのは、ハブの他に食べ物が無い時に限られるのだ。沖縄には無論ハブだけが棲息しているのではない。鼠や鳥や様々な小動物などが、一定のバランスを保ちながら、壮大な連鎖の下で生きているのである。そこに、ハブをも恐れぬ猛獣が導入されたのだ。猛獣マングースにとってみれば、わざわざ猛毒のハブなんかを追っかけなくても、殆ど無防備に走り回る「食料」が周囲に沢山いたのである。豊富な「食料庫」の中に置かれて、マングースは飽食し、ハブをやっつけることをやめてしまった。かくして、ハブが減る代わりにこういう沖縄の貴重な固有の動物が激減することになったのである。
今では、マングースは害獣に指定され、撲滅対象のトップに掲げられる生き物になってしまった。別にこの先生に悪意があったわけではないが、これが云ってみれば「実学の料簡の狭さ」に通じるのである。

「科学」つまり実学は、ある領域に特化することを要求する。そして同時に、明瞭な目的意識も要求される。この分野に求められるのはGeneralistではなくむしろSpecialistである。
それに対して自然科学、就中基礎科学は、一種の思想的、哲学的精神を内包するものである。だから、「宇宙の熱力学的死」を理論的に発見して絶望し、自殺してしまうのはこの世界の研究者である。高度な知性や深い専門知識に立脚しているとはいえ、本質的にこの分野の学者はSpecialistよりGeneralistである。その成果は人間の現実的な要求に応えることはしないが、実学の料簡の狭さを正す力には大きなものがある。

など、理論物理に憧れ、一時その裾野を踏んづけて歩いた経験があるものだから、どうしてもGeneralist的な性向を脱することは出来ない。こういう人間は、創業期の小会社のトップとしては、実学系の人間より適性においていささか不利なのではないかと思う。最近そんなことを思ってしまうのである。






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最終更新日  2006.08.05 13:32:01
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