2009/11/16(月)23:17
インディアンサマー
◇ 11月15日(日曜日) 旧九月二十九日 甲子(きのえ ね) 先勝: 七五三
【インディアンサマー】
秋も深まってくると、お天気は周期的に変化するようになる。
抜けるように晴れた日があるかと思えば、冷たい雨の日がやってきて、それを繰返しながら気温も下がり、木々の葉も赤や黄に染まっていく。
今日はこちらでは良く晴れて、如何にも秋らしい日になった。昨日一昨日と、寒いと思うほどの陽気だったのだ。それに曇天で雨も落ちて来ていた。こういう日は人の心までうそ寒く内向的にしてしまう。だからその後の晴れやかな陽射しと暖かさは、心がのびのびとくつろぎ広がる思いだ。
秋寒の日の狭間に訪れる今日のような日の事を日本語では小春日和といい、英語ではIndian summerという。私はIndian summerという言葉をボストンの郊外のレキシントンという街に居る時に教わった。
日本では、小春日和というと、風も無くポカポカと暖かい秋の日、おばあちゃんが縁側で猫と一緒にうつらうつらしているイメージだ。「風も無くポカポカ」がポイントである。
軒先には干し柿が辺りを鮮やかな橙色(柿なのに橙色は変だけれど)の簾模様に染めている。小春日和の情景は静であり、長閑である。
しかし、Indian summerは本当に夏のような日になることが多い。アメリカの他の州では同じかどうか知らないけれど、私の居たマサチューセッツ州ではそうだった。
前日まで吐く息が白く見えるほどだったのが、一転汗ばむような陽気になる。空気も日本の秋晴のように、軽々と透き通った抜けるような感じではない。夏の日に良くあるように、夕立でも来るような重苦しささえ感じる。周りを見回せば、毛皮やコート姿の人に、ショートパンツやTシャツ姿が入り混じってよく分からない。
日本の小春日和がのんびりまったりという風情であるのに対して、Indian summerは何となく硬質で攻撃的な感じがする。やっぱり、春ではなく夏なんだ。
なぜ、Indian summer、つまり「インディアンの夏」なんだろう。
最近読んだ本によると、これは「Indianのようにコロコロ変わってアテに出来ない天気」、というココロがあるのだそうだ。
この場合のIndianは勿論アメリカ・インディアン。所謂PCな言い方に倣えば、「アメリカ先住民族」(英語ではNative American←どちらも大文字から始まる)という事になる。但し、このPCという観点からの呼称には色々異論があって、「インディアン」の中でも「我々はアメリカ・インディアンだ」と主張する人たちも多いらしい。
良く知られているように、アメリカ・インディアン(と呼ばれた民族)は、我々日本人とルーツを同じうするモンゴロイドである。氷河期、海が後退した時期に、シベリアから陸続きになったアラスカへ徒歩で渡り、アラスカ、カナダから北アメリカ全般に拡散し定住した人々だ。
更には中央~南アメリカにも広がったが、こういう人たちはインディオと呼ばれている。
ま、それはともかくとして、アメリカ・インディアンは元々多神教の人々である。
多神教を奉じる人たちは、周りの自然や動植物に対して繊細であり、生々流転を信じ、来世を信じる。キリスト教徒も来世を信じるそうだが、アメリカ・インディアンのそれは「灰は灰へ、塵は塵に返し」ではないのだ。
この世での暮らしが終われば、あの世での暮らしが待っている。だから死者の埋葬に際しても、あの世での暮らしに不自由が無いように色々な日常生活に係る副葬品を添える。
この辺の考え方が一神教の世界とは根本的に違うから、新参者の一神教信徒から見れば、彼らが余りにも多様な要素に左右されているように見え、それが「コロコロ変わる」と思われたのも尤もなことだと思う。
だから、新参者一神教徒は、「昨日はあんなに寒かったのに、今日は暑い。しかし明日か明後日にはまたぞろ寒くなるだろう」という天気を、Indian summerと呼ぶようになったのだそうだ。ふむ。
そういえば、Indian giftとかIndian giverという言葉もある。
これは、我々の子供時代にもよく居た。「これ、欲しければ上げるよ。」そういってモノをくれるのに、翌日になると、「あれさぁ、お前に上げたもの、ちょっと返してくれよ。」と云ってくる奴。これをIndian giverという。
後になって返せといってくる、或いは最初からそういう前提で贈られるものの事をIndian giftというのだ。
これはアメリカ英語だから、この場合のIndianもやはりアメリカ・インディアンだ。
どうもアメリカ・インディアンの方々には甚だ不名誉な言葉のように思える。しかし、我が日本人と同じく八百万の神々を奉じ、森羅万象こもごもと人間個人との間を分け隔てしない人々の考えからすれば、個人の所有などという感覚は無いのかもしれない。誰が持っていようが、とどのつまりは自然の一部じゃないか。誰かのものというのは仮の姿に過ぎないでしょうに。
若しIndian・・・という接頭語の意味を、ころころ変わってアテにできないという、白人流に解釈すれば、同じような言葉も幾らでも出来そうだ。
Indian政治家、Indian教師、Indian医師、・・・・・・
Indian giftなんて、さしずめ赤字国債なんかぴったりだろうと思う。
しかし、本来の多神教的な意味でIndian・・・を使うとすれば、これは環境対策の分野での標語に向いている。
最近のエコロジーは放っておくと一神教的に偏向していく傾向にあるから、ここでちゃんと矯正をかけておく必要があると思う。
さて、我々現代に生きる日本人は、分類するとなるとどうなんだろう?一神教なのか?多神教なのか?
私自身はどうも本質に自分は多神教だという気持ちなのだが・・・