2022/01/11(火)14:29
2022年水無瀬~太閤道の旅
水無瀬神宮 祭神 後鳥羽上皇
水無瀬にはキヌガサタケの旅で数回訪ねているが、若山神社の往還に終始し、道中を省みたことはなかった。
今回、水無瀬駅に降り立ち駅頭の案内地図に東大寺の地名をみたときから私の道草根性に火が付き、居てもたってもいられなくなってしまって回り道することに。
まず、宗祇の水無瀬百韻の有名な巻頭「雪ながら山本かすむ夕べかな」を受けて、後鳥羽院は「見渡せば山本かすむみなせ川夕は秋と何思ひけむ」とうたった地が、代々東大寺領の荘園のあったという新発見を検証するために後鳥羽院の水無瀬離宮跡地に建てられたという水無瀬神宮へ。 ここが東大寺荘園であれば、大山崎に男山八幡宮の元八幡宮があることの土地の記憶につながり、天平期の良弁の事績にもつながる。
この発見にわくわくどきどき感がいや増しに高まり、道草しっぱなしできのこ旅のスタートである若山神社には昼過ぎに到着することとなった。
そんな私の発作的な思いつきにも夫々が道中に楽しみを見つけ文句も言わずにつきあってくれるのには常々心の底から感謝している。
諒子母娘は、道草の水無瀬神宮ではたちまち面白い神像を見つけ出しはしゃいでいる。本来、象や獏が飾られるべきところにドゴンの神様みたいな神像彫刻が。さんざん不思議がって騒いでいるとご婦人がそっと近づいてきて、明治期に、のちに<昭和造>という様式を完成させた建築家の角南隆(すなみたかし)によるもので、この神像も彼が彫刻家に彫らせてここに設置したものだという。
ことのついでにこの末社の星阪という不思議な神名についてたずねると、この神格は隠岐へ島流しになった後鳥羽院に終生付き添った重臣で、院崩御ののちその遺骨を京へ持ち帰った当人だと即、答えが返ってきた。
「なぜそんなに詳しいのですか」とたずねると、遠慮がちに水無瀬院研究会の方でふるさと島本案内ガイドをつとめるやぶきせい子さんとのこと。また毎月の第二日曜日には参道にイマココ工房として出店し、隠岐島特産品を販売していると聞き、またまた道草。
参道には10店余りの店が軒をつらね、私は山添村の茶づくりに感銘して日本茶ギャラリー岡村で通信販売をしている岡村商店の発酵茶「天日干し釜炒り茶」を買い求めた。
このお二方も「月のしずく」にとってはまたまた道草の大いなる収穫であった。
ついで文字通り水無しの水無瀬川に出て流れをさかのぼると東大寺荘園跡地の石柱が。このあたりから水無瀬川も水を湛えはじめ、川面には美しい鳥が一羽。形からすぐシギとわかったが、茶褐色の鳥が飛ぶと尾から胴にかけて白い羽毛が目立つことから帰って調べるとクサシギでした。
東大寺荘園跡地の石柱
若山神社
ようやくたどりついた出発点の若山神社。かってキヌガサタケと心ゆくまで対話した孟宗の竹林は駐車場に変わり、春先にはこの地で唯一アミガサタケのみられた本殿奥の弁財天を祀る浮島をもつ池は消失し、人影もまばらだった境内は参詣客でにぎわっておりずいぶんと様がわりしていた。
ここで諒子さんが奄美の口噛み酒のお屠蘇で作ったというケーキとシュタイナー方式で作られた味噌と富貴工房の味噌部仕立てのお味噌を楽しみ、たっとさんがお酒を飲める年になっていたことに驚きつつも持参の玉の光の初しぼり原酒で何度目かの乾杯をし、軽く昼食。
若山神社境内から取りつく太閤道は小一時間登りが続き、ニガクリタケやクチベニタケ、ワヒダタケ、クジラタケ、ツガサルノコシカケ、クロサルノコシカケ、年末の利休・秀吉ゆかりの妙喜庵、元八幡の旅の大山崎は天王山で見かけたヒイロタケ、クロハナビラタケ、そして冬の定番ヒラタケたちとも出会いました。
長い登りも終わり四辻でしばし休憩。ここからは尾根道で数か展望の開けたところがありますとの桧山さんの声におもむろに歩きはじめると諒子さんがギャッと虎の尾っぽを踏んだような奇声を挙げたので慌ててかけつけると、傘の径15cmはある見事な中型のシメジが落ち葉の間から顔をのぞかせていました。この日の大物賞はこれにて決まり。この後もヒラフスベやニガクリタケ、クジラタケ、カワラタケ、ハカワラタケ、ヒラタケが出迎える中を闊歩しました。この道中のきのこのことは次回お話します。
展望地のひとつでうながされて記念撮影。諒子母娘の間に顔をのぞかせているきのこは、知る人ぞ知るネフスキー研究家の桧山さんです。今回の山旅のガイドをつとめてくれています。今日の旅は、彼と二人っきりかなとおもっていましたがなんともうれしいきのこのサプライズでした。
諒子さんの胸に輝くブローチはホピ族やナバホ族の「インディアンの智慧」に惹かれていた16歳の時に買い求めたというトルコ石でできたチャームです。まさに青春そのものの青を湛え邪気の塊の私たちから守られており手も足も出ません。
尾根道から逸れた谷川の源流部に面白い磐座があるというのでまた寄り道しましたが、磐座を背後にした山神社の標識が。
よく見ると春日社で、ふもとの成合集落に遷座した春日神社の元春日にあたる奥の院とされる小祠でした。本来太陽神崇拝の地であった奈良の春日山と枚岡神社の関係同様に春日社の古来の形をとどめているところ、実に興味深いものがありました。
ようやくたどり着いた金龍寺はハイカーの火の不始末で全焼してしまったらしく、大日石仏と多重石塔や宝筐院塔を残すのみで山中にあっけらかんとした空地が広がっていました。
多重石塔
ここまで来れば里は近いと桧山さん。傾きはじめた日を仰ぎ「帰りたくないな」と思いつつもしぶしぶ下山の途につきました。かくしてムックきのこの道草ばかりのきのこ旅は今年も無事スタート。
コロナでひっくりかえる人間世界を遠巻きにしながら、きのこ目という異なる視点を磨きつつ更なる旅を続けましょう。