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テーマ:ラオス(15)
カテゴリ:旅
ラオスに初めて行ったのは96年の2月だった。
今でもラオス国内の移動は大変だが、あの当時はまだ政府が観光に力を入れ始めたばかりの頃で今よりもっと大変だった。 ラオスの首都ビエンチャンから古都ルアンプラバンまでは陸路をバスで行った。 初日は朝ビエンチャンから2時間ほどのバンビエンという近くの村まで行き、そこからまたバスを乗り継いで、2時間ほどでカシイという山中の小さな村に着いたのが午後1時頃だった。 ここで夕方のルアンプラバン行きのバスを待つことにしたのだが、さっきバンビエンから乗ってきたバスも実はビエンチャン始発だし、夕方のバスもビエンチャンから出ているというのがわかって今までの二回の乗り継ぎはなんだったのかとガッカリした。 しかしラオス人は優しくて、いくらバスが満員になってもギスギスした雰囲気にならないので、ここに来るまではそんなに疲れてはいなかった。 カシイは周囲が日本の妙義山のように山稜がギザギザに尖った山々に囲まれていて、今まで平野部では目にする事がなかった碧色の清流が流れている景色のよいところだ。 村を散策中に、前日からここにいるという日本の大学生N君と出会い、彼と近くの食堂で話していると同じバスで来たドイツ人のカップルも加わって、バスが来るまでの時間をおしゃべりして過ごした。 そのうちに5時近くなったので皆でバスが来る食堂に戻って待ったがバスは来ない。 ここには他にアメリカ人の5人グループがすでに待っていたが、8時まで待っても来ないので全員あきらめてカシイに泊まることにした。 このバス停の食堂はゲストハウスも兼ねていて、トイレ、シャワー共同のツインベッドの小さな部屋で一泊300円ぐらい。 シャワーといっても大きな甕に溜めた水を桶でかける式だった。 翌日は一日中この山の中の小さな村でぶらぶらして過ごした。 昨夜遅く日本人のカップルを含む外国人たちがまた到着して、この日の日中も新しく来たから、バス亭になっている食堂は外国人観光客だらけだった。 午後4時頃やっとルアンプラバン行きのトラックバスが来たが、すでに満員に近い状態だったので私ははじめから乗るのをあきらめてしまった。 トラックバスというのは、大型トラックの荷台に横板を何列にも渡して座席にしたもので、乗り心地も悪いうえに荷台の屋根にまで荷物や人が満載ではとても乗れたものではない。 それでも頑張って乗り込もうとしていた外国人もいたが、その様子を見ていた、午後バンビエン方面からこの村に着いたバスの運転手が、ルアンプラバンまで行ってもいいと言い出した。 夜のうちにルアンプラバンまで行ってくれば次の日は支障ないのでいいアルバイトになると計算したようだ。 昼間私も話した地元の学校の先生が英語で通訳して交渉し、一人700円ほどでチャーターすることにした。 乗ることにした外国人観光客は全部で17人。 あの当時のレートで全部で126ドルほどになったから、たとえ一晩眠れなくても運転手にとってはいい稼ぎになっただろう。 こうして午後5時頃、我々はようやくルアンプラバンに向けて出発した。 ルアンプラバンまでの道は、山の中だから当然直線などまったくない九十九折の連続で、さぞひどい道だろうと思いきや意外と快適だった。 道はずっと舗装してあるか、舗装してないところもまだ拓いたばかりでよく均してあって、デコボコはそんなになかった。 長いトンネルや橋を架ける金がないのか技術がないのか、たぶん両方ないんだろうが道は橋もトンネルも必要ない山の上の稜線伝いにずっと作られていた。 ラオス政府はこの道にかなり力を入れているようで、あちこちで道を拡幅したり工事していて、8時ころ、工事しているところに行き会って、通れるようになるまで1時間ばかり足止めをくった。 途中には平地はまったくなく、何をやって喰っているのかわからないような急斜面にも小さな村々が点在している。 せいぜい10人ほどしか詰めてないような小さな軍の屯所がいくつもあって、そこからときどき子供のような兵士が背丈と同じぐらいの自動小銃を抱えて乗り込んでくる。 こんなガキに鉄砲を持たせて大丈夫かいな?と思ったが、このルートは当時よく山賊が出没していて、この年の私が通った後でも外国人観光客が一人殺されていたから、護衛のつもりだったのかも知れない。 カシイからルアンプラバンまでは80kmほどと聞いていたので、こんな調子なら早く着くかなと思ったが、どうやら直線距離の話しだったようでルアンプラバンはなかなか見えなかった。 ルアンプラバンに近づくにつれて電気が来ている家が多くなり、竹で作ったアンペラの壁にヤシの葉で屋根を葺いただけの粗末な家に、なぜか衛星放送を受信するでっかいパラボラアンテナがあったりする。 11時半ころ左のはるか下方に小さな灯りの集まりが見え、それがルアンプラバンだった。 稜線伝いに来た道はだんだん高度を下げ、周りを低い山々に囲まれた平野に下りて行った。 それとともに沿道の家もだんだん立派なものが多くなり、ルアンプラバンの中心地には12時半ころ着いた。 我々のバスはゲストハウスが二軒並んだところに泊まってくれたが、両方ともすでに満員で泊まれなかった。 私が知り合ったドイツ人カップルはその軒先に寝袋を出してさっさと寝てしまったが、私は残った連中の後をくっついて行くことにした。 いつの間にか現れた自転車を引いたオジサンが我々を宿に案内してくれた。 何軒か見てまわって泊まる人は泊まっていたが、あまり高いところばかりで、そうでなければもう夜遅いという理由で泊めてくれなかった。 私とN君は途中で、閉まりかけの店で肉まんを買っているうちに皆とはぐれてしまい、街灯の灯も淋しいルアンプラバンの街をあてどなくさまよったが、結局こんな時間ではもうどこも泊めてくれないのがわかっただけだった。 朝まで落ち着ける場所を探しているうちに煌々と灯りがついているところがあったので入りこんでみると「タラートダラ」というルアンプラバンの中央市場だった。 店の売り場になっている台の上なら寝心地が良さそうだと思っていたら、奥からM16自動小銃を抱えた男が出てきて言葉はわからないが何か詰問している。 どうもガードマンのようで我々が怪しくないと知ると銃を下ろしたが、N君は間近に自動小銃を見てビビッてしまったようで出ようと言うので退散することにした。 私は自衛隊にいたことがあるから自動小銃は見慣れているが、日本の普通の大学生なら銃は見るだけで怖いかも知れない(特に他人が持っていると)。 その後は寺の境内に入り込んで床下に寝ようとしたが石畳だから冷たくて眠れず、結局どこかの大きな病院の外にある麺屋の屋台の上で寝ることにした。 ルアンプラバンを歩きまわって外で寝ても大丈夫そうな感じだったし、ここなら病院の中でずっと起きている人もいるから安心だ。 寝る場所が決まるとN君はレスキューシートを出してあっという間に寝入ってしまったが、私はそんな気のきいたものは持ってないので寒いし、寒いくせに蚊のヤツがいるものだからなかなか寝付けなかった。 我々がここに落ち着いた3時ころ向かいの病院に女が運びこまれ、何やらずーっと苦しげに呻き続けていたが、4時17分めでたく赤ちゃんの産声が聞こえてきて良かったねと思いながらやっと束の間の眠りに落ちた。 5時過ぎには麺屋のオヤジが外に小便をしに出てきて、何も言わずにまた中に入っていったが、それからしばらくしたら娘たちが出てきて開店準備を始めたので屋台の上でゆっくりしていられなくなり、N君も起こして開店したばかりの店で一宿のお礼にうどんを一杯食べたのだった。 寝不足のまま7時ころまた街中に戻ると昨夜別れたドイツ人カップルと会い、いい宿を見つけたと言うので付いて行って、そのRAMAホテルの8ドルの部屋を取り、中が片付くのを待ってから部屋に入って、ようやくくつろげたのは9時頃だった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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