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2019年11月04日
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テーマ:日本の歴史(1057)


​歴代天皇ゆっくり解説 女性天皇​
これはいつかは取り上げなくては思っていました。
YouTubeの動画の​歴代天皇ゆっくり解説より​より抜粋ですが、古代は女性天皇は結構割合で活躍しております、勿論、現在とは制度が違いますが。昔は男性は通い婚でその為か家を女性が継ぐために派生したました。主に女性天皇役割は次の天皇への繋ぎ、女性天皇であって、女系ではありません。しかし、男性の天皇以上に個性の強い天皇が多いことも事実、女性ならではの解決策や逆にトラブルも、下手すると古代の天皇は男性以上に有能かもしれない。だた、数が少ないのでそう見えるだけかもしれませんが。

第四十一回 持統天皇
まずはこの方、この方以降にも女性天皇は誕生しているのですが、夫の遺功の古事記日本書紀の編纂、編纂には古事記は4か月で全3巻、日本書紀は34年、全30巻他。
後は藤原京という永住都市計画を行ったり、初めて生前退位をして上皇になられたり、初めて火葬を行ったり。現在に通じる事を始められたこと多い、主に夫である天武天皇の遺功もありますが…それでも十分な功績です。
持統天皇じとうてんのう (645―702 飛鳥時代)第41代天皇 在位690-697
大化(たいか)元年生まれ。天智(てんじ)天皇の第2皇女。母は蘇我遠智娘(そがの-おちのいらつめ)。天武天皇の皇后。天武の死後,即位せずに政務をとり(称制),4年後に即位。夫の遺業をついで,飛鳥浄御原令(きよみはらりょう)の実施徹底をはかり,藤原京を造営してあたらしい都とした。大宝(たいほう)2年12月22日死去。58歳。墓所は檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)(奈良県明日香村),天武天皇と合葬。諱(いみな)は鸕野讃良(うののさらら)。別名は高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと),大倭根子天之広野日女尊(おおやまとねこあめのひろのひめのみこと),倭根子天皇。
【格言など】春過ぎて夏来にけらし白妙(しろたへ)の衣干すてふ天(あま)の香(デジタル版 日本人名大辞典+Plusより、)

第三十三回 推古天皇
王様ゲーム!!蘇我氏チートそんな時代。
皇室初の女性天皇、小中学校生の教科書でもおなじみ。
ちなみに古事記では推古天皇まで書かれています。日本書紀は持統天皇まで、蘇我氏の力があり過ぎた時代ですが、彼女はしたたかうまくかわしていた様です。実在の有無は本当に別にして皇太子聖徳太子が相当頭の切れる秘書だったのでしょうね。ただ、蘇我氏無双の時代、全が上手く行ったわけではありませんが。
推古天皇 すいこてんのう(554―628 飛鳥時代)第33代天皇。在位593*-628。
欽明(きんめい)天皇15年生まれ。欽明天皇の第2皇女。母は蘇我堅塩媛(そがの-きたしひめ)。用明天皇の同母妹。敏達(びだつ)天皇の皇后。わが国初の女帝。聖徳太子を皇太子,摂政とする。仏教の興隆をはかり,「天皇記」や「国記」をつくらせた。冠位十二階や十七条憲法を制定し,小野妹子(いもこ)を隋(ずい)(中国)に派遣した。推古天皇36年3月7日死去。75歳。墓所は磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)(大阪府太子町)。別名は額田部(デジタル版 日本人名大辞典+Plusより、)

第三十五回 皇極天皇
第三十七回 斉明天皇​  
乙巳の変(大化改新)が起こった頃の天皇、有能な複数皇太子が居ても繋ぎはあるのですね…
欠史八代レベルの情報ですが、理由があるとはいえ2回も天皇になったので結構したたかですね。一度譲位してます。最初の上皇は持統天皇ですが、その頃は上皇が無かったらしですね、実質上皇のようなものですが。2度天皇になられたからでしょうか、2度も政治の表舞台に立つのはあの方みたいだ。
皇極天皇 こうぎょくてんのう (594―661 飛鳥時代)第35代天皇 在位642~645
斉明天皇 さいめいてんのう (594―661 飛鳥時代) 第37代天皇 在位655~661
推古天皇2年生まれ。茅渟(ちぬ)王の王女。母は吉備姫王(きびつひめのおおきみ)。舒明天皇の皇后で,舒明の死後,即位。蘇我蝦夷(そがの-えみし)・入鹿(いるか)父子が強権力をふるう。中大兄(なかのおおえの)皇子と中臣鎌子(藤原鎌足(かまたり))らが645年その父子をほろぼした。天皇は弟の軽(かるの)皇子(孝徳天皇)に譲位し,中大兄を皇太子とした。655年斉明(さいめい)天皇として重祚(ちょうそ)。斉明天皇7年7月24日死去。68歳。別名は宝皇女,天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと),飛鳥天皇,後岡本天皇
【格言など】今城(いまき)なる小丘(をむれ)が上に雲だにも著(しる)くし立たば(デジタル版 日本人名大辞典+Plusより、)

天皇では無いものの、どちらもある意味実質天皇の女帝。

特別編① 神功皇后
この方を語らずにはいられないでしょう。いわゆる不即位天皇??、存在有無が疑われるので天皇とされて無いのでしょうか?
三韓征伐の中心人物ですし、考えによっては旦那や息子よりも個性が強い。しかも、九州の神社には必ずと言っていいほど祀らています。70年も摂政として政治をとった、実質天皇じゃないですか。まるでエリザベス女王…それよりも長い。どんだけ長生きやねん、正直胡散臭い。ちなみに、彼女も卑弥呼の一人とされてます。
神功皇后
古代,仲哀天皇の皇后とされる人。名はオキナガタラシヒメノミコト。父は開化天皇の曾孫,母は新羅から但馬に来住したというアメノヒボコ(天之日矛)の玄孫タカヌカヒメ。いわゆる三韓征伐物語の中心人物。「記紀」によると仲哀天皇が熊襲を討つため九州に赴き筑紫の橿日宮(→香椎宮)で急死すると,同行の皇后は妊娠中にもかかわらず,武内宿禰とはかり新羅に遠征,新羅降伏後筑紫に帰ってホンダワケノミコト(応神天皇)を産んだという。この遠征の結果,百済と高句麗も日本に帰服した。皇后は大和に戻ってほかの王らを討ち,応神天皇を皇太子に立てて,約 70年間皇太子の摂政としてみずから政治をとったといわれる。また『日本書紀』は皇后を暗に『魏志倭人伝』にみえる女王卑弥呼に擬している。陵墓は奈良県奈良市の狭城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのへのみささぎ)。(ブリタニカ国際大百科事典より、)

特別編② 飯豊皇女
彼女も実質天皇、文献には飯豊天皇とも、不即位天皇とされてますが…
飯豊皇女
記・紀にみえる皇女。父は履中天皇,母は黒媛(くろひめ)とも,父は市辺押磐(いちのべのおしはの)皇子,母は荑媛(はえひめ)ともいう。「日本書紀」では清寧天皇5年天皇の死後,億計(おけ)王(仁賢天皇)と弘計(おけ)王(顕宗(けんぞう)天皇)が皇位の継承をゆずりあったため,皇女が政(まつりごと)をおこない(「扶桑略記」「紹運録」では女帝とする),同年11月に死去とつたえる。青海(あおうみの)皇女,忍海部(おしぬみべの)女王などともいう。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusより、)

それから女性天皇ではありませんが、重要な天皇の家族を載せてます。
第七回 孝霊天皇
第八回 孝元天皇
実在の有無な別に、天皇の娘、あるいは姉の倭迹迹日百襲姫命は卑弥呼とされており、他にも卑弥呼の候補は複数いますが一番近いとされています。孝元天皇が弟されついていたとも、天皇が人の下につくのも何か変ですね。あと、彦五十狭芹彦命は兄とされあの桃太郎、欠史八代に鬼退治の兄と邪馬台国女王とされる姉と目立たない天皇(皇太子)これは何かポイですが…あえて言及しません。
卑弥呼と桃太郎が兄妹、中二病にうってつけネタですが…

持統天皇以降も複数女性天皇はおられますが今回はここまで。
元々はFGOでバビロニアを視聴してふとギルガメッシュついて調べていたら即位長すぎて年数おかしくない?から始まりましたが。外国の王と神が気になれば、当然のことながら日本の王と神も、結果、古代の日本の天皇もそれに負けず劣らず。ギルガメッシュ王とエルキドゥはまるで天智天皇(中大兄皇子)と藤原(中臣)鎌足、鎌足は藤原姓を賜った藤原氏の祖であり天智天皇の盟友、蹴鞠会(サッカー)で意気投合、乙巳の変を起しましたし、亡くなった時も彼に最上位の冠位を贈っております。藤原(中臣)鎌足にしろ、エルキドゥしろ目的をもって近づいているのでこれ以上言及しません。藤原氏が本格的に表舞台に乗り出すのこれ以降なので藤原氏については後ほど乗せさせていただく事になるかもしれません。

しかし、しかし、天皇のゆっくり解説を聞いているとその物語性はまるで何かの様、そちらは流石には憚れるますが、中大兄皇子、大海人皇子、藤原(中臣)鎌足、蘇我入鹿、蘇我蝦夷とかどこぞの英霊です。
※余談ですが、​​​天武天皇、及び持統天皇?が古事記日本書紀の編纂を命じた事ですが。
元は乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺された際に 憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害。 この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上、「天皇記」など数多くの歴史書はこの時に失われた、恐らく、歴史書は悲願だったのでしょう。蘇我インパクトは親子死してもな鮮烈、この時滅亡したのは蘇我氏宗家のみですがね。分家は生き残り結構な地位を得てます。ちなみに、「国記」は難を逃れ中大兄皇子(天智天皇)に献上されたとの事、しかし、今のところ現存はしていません。何かあるのだろうか?仮に「国記」が発見されれば歴史を塗り替える事になるのかもしれませんね。
古事記4か月でへっ?マジでうそやん、完成は随分と後みたいですが、4か月はマジの様です。稗田阿礼に命じて彼女(性別不明)の帝紀・旧辞等の記憶から編纂されたものですが、記憶力半端ないか?からの引用ですが…とても稗田阿礼が文字が読めないとは思えませんね。
”成立の経緯を記す序によれば『古事記』は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものである。かつて「誦習」は、単に「暗誦」することと考えられていたが、小島憲之(『上代日本文学と中国文学 上』塙書房)や西宮一民(「古事記行文私解」『古事記年報』15)らによって、「文字資料の読み方に習熟する行為」であったことが確かめられている。 (ウィキペディアより、)”
日本書紀は39年、編纂チームまるで違う、第3皇子舎人親王が勅を奉じて太安麻侶らと編纂、関わる人員すらも変わってくる。こうなると全くの別物、書かれているのが違うのは当然なのでは。日本書紀は一般的に海外向けとされていますが、肝心の海外の人、中国人が読めない…へっ…。
いわゆる、わかりやすく言うと英語表記とローマ字表記の違いですが何の為に…40年近くもかけてのか?もしかしてこれは目的が違いいますか。





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最終更新日  2024年01月22日 12時31分07秒
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