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機械を創造するときの理詰めの「段階的発想」については書いた。
ただ、そこから「理詰めの発想、構築で否定した物」が、ストーリーの中核を紡ぎ出す段階で 「復活してくる、発想の中心まで引き上げられる。(出世する?)」のが解らないという指摘がビッター8042さん、ドクロ2008さんなどからあった。 ・・・たしかに。理屈には合わない。 ここで、物語、世界観を「創造するというのはどういう事か」を考えてみてほしい。 此処ではない場所、時間、人々。それらを新しく「創る」とすれば、それはその世界からすれば「創造主=つまり神である」ということになる。 これならどうですか。まずここから。 で、我々の世界にもし(僕自身無宗教なので誤解のないように申し上げますが、この話は神の存在を否定も肯定もする物ではありません。論旨は別にありますので具容赦下さい) 創造主、神がいるとするとどうだろうか。 地球も、生き物も、神が創ったとする。それはかなりもう、理詰めな感じで入念に。創ったご本人も「考えただけあって上手く出来たな。一回リセットまでしたしィ」という完成度、グッドデザイン賞物だといううわさの出来。大変良くできました。 ・・・にもかかわらず事件は起きる。大災害、天変地異、戦争。「これも創造主、あなたが計画、設計しなさったのか」といえば、多分こう答えるのではないか。 「・・・俺じゃねえよ!」 すみません、かなり宗教を批判しているかのような発言でした。本意ではないのですが他に例えようがない私をお許し下さい。もう少しです。 つまり、僕たちは、日々「予定外の事象」に遭遇する。楽しいことも、苦しいことも、変化の中で生きているわけだ。 コレを模倣したい。これを「物語」と呼びたい。 僕等が造物主となった世界を、全て理詰めで創ることは、おそらく可能だ。机の上の空論、妄想にすぎないから。 しかし、設定的に理屈に適った世界は、その世界自体安定してしまい、何も事件が起きない。変化も計算された世界は事件さえ解決法付きで創造されているから。理詰めだから。 まして、それが、構築した世界そのものを揺るがしてしまうような事件は、絶対に起こせない。もしもその世界を揺るがすような大変化、大事件を「創造」しなければならないとしたらどうするか。 持ち駒はある。この世界に起きないはずだと切り捨てた捨て駒が。 そして変化に富んだ世界が、理詰めの世界観の真逆、むしろ逆の構想を注ぎ込んで「再構築」してこそ成立する。 神ならぬ僕は、このやり方で世界を模倣する。それが最善の方法。 そう思った1981。 そう思っている2008。多分これからも。 作品集2005にも書いたが、ターミネーターはまだ存在していません。元ネタ、といわれるような小説はたくさんあったとは思う。だが、当時の「今まさに今日」、どんな物がいいのか、それらの引き出し、どれを開くのかという選択は、敢えてクリエイティブであると言っておきたい。クリエイティブとはリアルタイムである。そう思っている2008。 なかなかシャイアンやマグリット先生にたどり着けません。まーいーんですが。 続く。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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