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2006年05月22日
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カテゴリ:カテゴリ未分類

※この旅行記は、去る2005年9月2日から連載を始めた下記タイトル画面のホームムービーを、適宜静止画化し往時の旅を自身ジックリ回想しながら、アルバム化した長編写真集です。
列島縦断前題列島縦断主題

         * * * * *
 テスト掲載
 《ホームムービーの長編組写真化旅記録》
マイ・ビデオ紹介
『格安追求
  青春18切符
     日本縦断《26》』

 ※初めて本シリーズを御覧の方は、去る2005年
  9月2日の初回に掲出した前書きの内容を良く
  御理解いただき、出来れば初回から順に御覧
  になるよう筆者は希望します。
  但し画像は、当然の事として楽天日記の登録
  制限を大幅超過するものと見込まれるため、
  その際は古い日付のものから順次削除し新た
  な画面を紹介していきます。
  従って説明文のみの虫食い部分が続出する事
  になると思いますが、宜しくご理解下さい。

         * * * * *

▼(26-1)展望台の脇には、旧跡等で良く見かける着せ替え式
 の記念撮影場所があり、大礼服姿の西郷さんに即変身して
 「はいポーズ」とオドケ顔をしていた私。

↓少々見難い全身像 ↓拡大した半身像
城山山頂の着せ替え西郷全身 城山山頂着せ替え西郷半身

▼(26-2)バスは城山観光ホテルから参加した母娘らしい二人
 連れの乗車を待って発車。往路(2-12)で紹介した西郷洞窟を
 車窓に見ながら登山道を下り次の観光場所「南州墓地」へ
 向かった。
城山観光ホテルから参加した母娘らしい二人連れ城山観光ホテルから参加した母娘らしい二人連れUP
        城山観光ホテル出発直後のガイド嬢

▼(26-3)日当たりの良い城山山麓に、鹿児島の市街地を見下
 ろせるように広がっていた南州墓地。
 明治10年の西南戦争で自刃した西郷隆盛をはじめ、西南戦争
 に敗れた薩軍の2023名の将士が眠っている。
城山山麓の南州墓地(列島縦断旅選289)


↓西郷隆盛の墓は当然ながら最前列中央に設置されていた。
 でも思ったより小じんまりした感じがした。左手に最後まで
 奮戦した桐野利秋、右手には篠原国幹、他には村田新八、
 辺見十郎太、別府晋介、桂久武等の幹部が並んでいた。
西郷隆盛之墓(列島縦断旅選292)

↓花も蕾の「少年烈士之墓」。
 3人とも15歳にも満たないのに…と胸を熱くさせられた。
少年烈士之墓(列島縦断旅選293)

↓雛壇式に並んだ数多の墓列の由来を説明、その先の樹間に
 垣間見える鹿児島市街を指さすガイド嬢。
雛壇式に並んだ400基もの墓列(列島縦断旅選302)

▼(26-4)私達の「レッド・ライナー」号は又一走りして北埠頭の
 先にある磯庭園(仙巖園)へ着いた。
※磯庭園(仙巌園)公式サイトID⇒http://www.senganen.jp/
磯庭園到着(列島縦断旅;選305)

↓古い記憶ながら、駐車場に隣接して磯庭園の入口の手前に
 尚古集成館があった。
 先進的だった島津家の博物館とも言うべき施設である。当時
 の日本では未だ珍しかった石造りで建物自体珍しがられたに
 違いない。勿論、中の収蔵品も見ておきたかったが、この日は
 ハイライトツアーゆえ残念ながら外観を目にしたのみだった。
鹿児島磯庭園尚古集成館

▼(26-5) 錫門の外観と軒裏に刻まれた紋章。
 島津家の丸十と五七の桐の家紋が入ったこの門は、第19代
 光久により建てられた当時の正門だ。
 だが明治28年に第29代の忠義が、後に広がった磯辺に合わ
 せ海寄りに新正門を建立したとの事。同様に島津家の紋が
 彫りこまれている由だが、新正門は撮り洩らした。
 ともあれソンナ訳で旧正門は屋根を錫で葺いていたことから、
 「錫門」と呼ばれ庭の真ん中に位置する事になったとか…。 
鹿児島磯庭園正門(列島縦断旅選314)

錫門、丸十の紋章正門軒下、五七の桐桐の紋章(列島縦断旅選316)

▼(26-6)錫門を入り磯庭園の中を御殿へ向かう。
 この磯庭園は1658年(万治元年)第19代薩摩藩主光久が
 別邸として建て、仙巖園と名付けたという。
 桜島を築山に錦江湾を池に見立て借景とした、いかにも薩摩
 の殿様の発想らしい1万2千坪程の雄大な日本庭園だった。
 又この御殿、第29代忠義氏の時代には本邸として使用されて
 いたとの事。現在では明治17年(1884)に改築した部屋を中心
 として、当時の約3分の1が残っているとの事。
 なお本邸として使われていた時代を想定して案内をする観覧
 コースがあるそうだ。お抹茶お菓子付きで所要時間は20分だ
 と言うし、家内同伴のフリー訪問だったら、島津の殿様の客人
 にさせてもらったつもりでユッタリと広い庭の散歩の足休めを
 するのも悪くないだろうなと思う。
磯庭園の御殿へ向かう ←御殿へ

↓鹿児島磯庭園の御殿屋根瓦にも丸十家紋
鹿児島磯庭園の御殿屋根瓦にも丸十家紋(列島縦断旅選312)

▼(26-7)御殿の直ぐ手前にある松の謂れをガイドさんが話し
 ている場面だ。
 「やくたね五葉」と言われ、樹高約28m、直径約1.5mもの
 大木との事。
 御殿の前で仙巌園の長い歴史を見つめてきた老木とあって、
 倒れぬよう何本の支え木によって支持されていた。
御殿の前の松「やくたね五葉」(列島縦断旅選313)

▼(26-8)これは、磯庭園での櫻島を背景にした記念写真だ。
 紙焼原画の大きさは17cm×12cmだから、全員を一画面で
 紹介した次の写真では、一人一人の顔かたちは多分豆粒
 程にしか見えないものと思う。
 だがスキャンした侭の画面は、その下に三分割した大きさで、
 各々の細かい表情まで良く分かる。
 さて、こうして見直すとガイドさんとドライバーを別にして当日
 の顔ぶれは計23人で、一人旅は最高齢だった後列右から5
 人目の私一人だった。
 そして、前列左から5&6人目が既に(2-2)で紹介した、城山
 観光ホテルから参加した母娘らしい二人連れ、7・8・9人目
 は兄姉弟らしき少年少女三人連れ、10・11人目は新婚さん
 らしき二人連れ、そして12人目すなわち右端がガイドさんで、
 残る15人はグループ旅行らしい若い男子学生(?)の皆さんと
 言った取り合わせだった。
 文字どうり一期一会の縁ながら、これも我が健やかなりし頃
 ゆえに実現出来た『格安追求の旅、青春18切符で行く日本
 縦断』で袖触れ合った人々。
 つまり私の人生の中で極めて異色な旅の最中で往き会った
 何か他生の縁を感じる人々と言う訳である。
 勿論その時は漠然と同席していただけの人々の姿ながら、パ
 ソコンが発達したお蔭で一人一人こんな風に拡大して見直す
 事ができるのも。
 そして何故か懐かしさを感じ、「みんな今も元気かしら。
 幸せに暮らしているといいなぁ…」などと思っている今の私だ。
鹿児島磯庭園旅友記念写真縮無枠

↓磯庭園記念写真人物三分割左端
Scan磯庭園記念人物左端

↓磯庭園記念写真人物三分割中央
Scan磯庭園記念人物中央

↓磯庭園記念写真人物三分割右端
Scan磯庭園記念人物右端

▼(26-8)「獅子乗大石灯籠」
 飛び獅子の乗っかった大きな燈篭で1884年に作られたもの。
 火袋以外は無加工の石を使っていて写真では実感しにくい
 が、笠石の大きさは八畳程もあると聞いた。
 又これは28代斉彬が蘭学者らにガス灯の用法を書いた蘭書
 を翻訳させ、安政4年(1857年)8月に磯御殿の浴室付近に
 ガス室を設置。日本で初めてガス灯を点したことに始まり、庭
 の燈籠の灯りもガス灯化したものの一つとの事。
 つまり明治維新の10年も前のことで、斉彬の先進ぶりを
 物語るものの一つだ。
獅子乗大石灯籠(列島縦断旅選322)

※次回へ続く





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最終更新日  2006年11月08日 22時21分28秒
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