456543 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

健全な男女共同参画を考える!

健全な男女共同参画を考える!

文部科学省へ意見書(教育図書、家庭基礎)

文部科学省では、「教科書に対する意見提出窓口」を設けいている。本日以下の意見提出を行った。

高等学校、家庭基礎(042)(教育図書発行)の記述の疑問点についてお尋ねします。

1 家族に出会う (2)家族のとらえ方 1) 異文化の中の家族(95ページ)に、
次のコラムが紹介されています。
 
 コラム:ヘヤー・インディアン(カナダ北西部・1960年代)の家族
 第一に,「家族は同じ屋根の下で住むことが自然だ」という気持ちが弱い。獲物の分散状態や,皮なめしの都合などで臨機応変に夫婦親子が分散し,ときには男だけのテント仲間,ときには女だけのテント仲間を構成する。(中略)
 第二に,「男女の同棲は,あくまでも気の合っている間だけ続けばいい」という気持ちが流れていることだ。(中略)年老いてなお,同じ相手と楽しく暮らしているラクー夫妻のような夫婦であれば,「彼等はたまたま気が合ったから,ああしていられるのだ」と,周囲の者も,本人達も考えている。(中略)
 第三に,「嬰児は,その子を生んだ母親が育てなければならない」という大前提が存在しない。「子どもは,育てられるものが育てればいい」のであって,「それが実の母なら望ましいが,何も実の母に限ることはない」という考え方である。(中略)
「生まれてすぐは,父方の祖母に育てられて,隣のテントのおばさんから乳をもらい,それから母の妹の所で暮らして,七つの頃,一時母親と暮らしたけれど,あとは母の兄の家族と暮らして,今の夫と結婚した」というような話がよくある。このような西洋や日本でなら「家なき子」として悲劇の主人公になりうるような場合でも,ヘヤー社会では決して悲劇と考えられない。(中略)
 第四に,ヘヤー社会では,個人主義が徹底しているので,日本で見られるように,集団に心理的に依存する度合いが少ない。(中略)子どもたちは,小さい頃から,「自分で生きなければ,だれも最後には助けてくれないよ。一人で氷を歩いているとき,ホツキョクグマに会ったらどうする? 寒くて飢え死にしそうな時,自分の力で生き抜いて,食べ物をさがさなければならないんだよ」とまわりの大人たちからいわれつづける。
 3歳の子が,刃物をもって遊んでいると,大人は,手を切ることもあるが,お前が遊びたいならお遊び。あとで痛くても知らないよといって自分の判断にまかせる。(後略)
             (原ひろ子『家族の文化詩』より)

以下、私の感じている疑問点です。
 高校生に、家族の姿を考えさせようというのが、教科書のテーマだと思うのだが、ヘアー・インディアンという、かなり特殊な人たち(少なくとも私は今回初めて知ったし、原ひろ子氏自身も別の著書(ヘアー・インディアンとその世界)で、「1988年現在のカナダでも、ヘアー・インディアンの名前はそう知られてはいない」と述べている)の家族像を紹介している。原ひろ子氏が、ヘアー・インディアンの調査を行ったのは、1961~63年だ。当時、ヘアー・インディアンの人口は、わずか350人ほどだったらしい、また、その居住(生活)区域は、カナダ西北部の北緯66度あたりで、アラスカに近い地域だ。その生活は、主にウサギ、カリブ、ムースなどの狩猟を主な生業としている。
(その生活・環境・文化については、下記の参考資料1をご覧ください)
 45年ほど前というと、年月の流れの早い昨今から見れば、相当昔になる。ヘアー・インディアンの人たちの生活、家族のあり方も現在大きく変わっているかもしれない。果たして、このコラムは、正しい(適切な)情報を提供していることになるのだろうか?それとも、情報操作を意図したものなのだろうか?
 普通なら、標準的な家族像を紹介するものだと思う( 参考資料2をご参照ください )のだが、著者(教育図書)は、普通の家族を嫌悪しているとしか思えない。
 因みに、引用されている『家族の文化詩』は、1986年初版発行。教科書に、20年以上前に発行された本からの引用をわざわざ持ってくるには、何らかの強い意図があるといわざるを得ない。
 なお、この教科書の、次のページ(P96)には、男女7人,同じ屋根の下に(コレクティブハウス)というコラム( 参考資料3をご参照ください )もある。これも普通の家族ではなく、特殊な家族(?)の形態を積極的に肯定しようとしているようにしか思えない。

最後に質問があります。
1)ヘアー・インディアンの人たちは、今現在、1960年当時と同じような(コラムにあ
 るような)家族の形なのでしょうか?
2) a )1960年というかなり過去の、そして350人という非常に数少ない人々の暮ら
 す社会(氏族あるいは部族ともいうべき)を、教科書に取り上げることは、教科書として適切なことだったのでしょうか?
b)もし取り上げるとしても、ヘアー・インディアンがどこでどのように生活し、どれほどの人数の社会であるかを記述することが必要ではないでしょうか?
3)疑問点のところで書いたように、著者は普通の家族を嫌悪しているとしか思えない。
なぜ、このような特殊な家族の姿を、取り上げたのでしょうか?このような特殊な家族の姿を取り上げることは問題ではないでしょうか? これでは、家族崩壊を望んでいるとしか思えない。


 
 参考資料 1
原ひろ子著「ヘアー・インディアンとその世界」から、関係する記述を抜粋します。
<生活・環境:厳しい寒さと飢餓>
○北アサパスカン文化圏に属する諸部族の中で、彼らほどウサギに依存しているものはないようだ。ムースやカリブなどの大型獣がまわりの部族におけるほど豊富でないからである。しかも、このウサギの数が周期的に変動し、その周期の谷間の年には餓死者も出るといった過酷さがヘアー・インディアンの生活にはつきまとっている。(P32)
○食料源の貧困ゆえに約9万平方キロ(日本の本州の四分の一弱)の地域に300ないし500人の人口を維持するのがやっとだったようである。しかも乏しい食料を求めて、少グループに分かれて分散してキャンプし、常にテントの移動を余儀なくさせられている。(P34)
○気温は、1月、2月がもっとも低く、氷点下40度から45度というのは普通で、ときには氷点下50度に下る。そして、北西風によるブリザードのため外出不能となり、終日テントの中で過ごさねばならぬ日々も稀ではない。(P34)
○食料獲得のためのエネルギー効率ならびに餓死者や老人遺棄の発生頻度といった基準に基づけば、ヘアー・インディアンは、世界でもっとも過酷な生活、ないしは、極限の生活をしている民族といえるだろう。(P194)

<カニバリズム:人肉を食すること>
○19世紀に書かれたこれらの記録を見ても、8年ないし10年おきに数人の餓死者が出、必ずといっていいようにカニバリズム(人肉を食すること)が行われている。
この周期は、ヘアー・インディアンが常食としているカンジキウサギが7~10年おきに増減するために発生すると考えられている。(P56)
○1841年の冬、多くのヘアー・インディアンが餓死し、カニバリズム(人肉を食すること)によって生き延びた人も数例あったという記録や、1892年に女たちが人の血を飲んでいたという記録がある。(P59)
○ヘアー・インディアンの親子関係は、日本のそれとは対照的に、きわめてドライである。母-息子や父-娘が同衾することは厳しいタブーによって禁じられているが、相互にその肉を食することはタブーとされていない。しかも、人に食べられて死ぬことは「幸せな死」ではないけれど、「良い死」とされる。(P61)
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(近藤コメント)
以上で分かるように、ヘアー・インディアンの世界は、われわれ日本人とは、生活・環境、また文化的にも非常に異なっていることがわかる。
 そのような人々の家族像の一部分だけを、高等学校の家庭科の教科書(教育図書、家庭基礎・家庭総合)に掲載することはとても適切だとは思えない。掲載するということは、そういう家族のあり方も望ましいということを表明していることであり、教科書という性格上、子供たち(高校生)は、肯定的にとらえるのである。
 やはり、特別な意図(思想・イデオロギー:ジェンダーフリー思想)を持っているとしか考えられないのである。


 参考資料 2
教科書は、生徒にとって絶対的なものである。もし取り上げるのならば、世界の中でもより一般的な家族像を紹介すべきである。
 例えば、世界の人口の約5分の一を占める、イスラム圏の家族を紹介するとしたら納得のできることである。イスラム圏は、多くの日本人にとっては、まだまだ遠い世界だと思う、しかし、いろんな意味で、関心のある地域であるし、今後、緊密な関係を築いていくべきところだと思う。
 先日、たまたま開いた、アジア・アフリカ言語文化研究所のホームページに、イスラム圏の家族についての紹介(Q&A)があったので記します。こんなコラムだったら、教科書として適切だと思う。
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Q:イスラーム圏の家族のありかたについて教えてください。

A:イスラーム教徒(ムスリム)と付きあっていると、彼らの家族中心主義にしばしば圧倒されます。現代日本では家族より仕事優先の傾向が強く、その結果多数の「わびしい」単身赴任者が生まれてきたことはご存じの通りですが、ムスリム社会では家族と離れてまで勤めを続けようとする人はめったにいません。もちろん独身者の場合には、結婚資金(マフル)を得るとか、弟妹の食い扶持を稼ぐとかいった目的で、男も女も単身稼ぎに出ることがあります。しかし既婚者が単身赴任するケースは、近年増加気味とはいえ、かなり稀と言っていいでしょう。
(中略)
まず、アラブ的家族は構成員が多いことで知られます。ふつう一世帯に三~四世代が同居している上、多くの子供たちがそれぞれ妻子を抱えているため、全体としては相当な数になります。さらに、ここでの家族は日本人が考える家族の絆をしばしば飛び越えます。数百年前の祖先を共有する人々をすべて「家族」と呼んだり、姻戚を「家族」に加えることも珍しくありません。もっとも、大家族はアラブに限った現象ではありません。農業や遊牧を生業とする社会では一般に家族が生産単位となるため、家族の数が多ければ多いほど労働力になるのです。日本でも戦前は大家族がふつうでした。ムスリム社会の特色はむしろ、この大家族を都市生活、商業生活でも維持してきた点にあると言っていいでしょう。イスラームはたくさんの子を育て、良きムスリムを増やすことを奨めます。


 参考資料 3
1、 家族に出会う (2)家族のとらえ方 2)さまざまな家族(P96)

 コラム: 男女7人,同じ屋根の下に(コレクティブハウス)
 土曜のお昼。キッチンに集まった住人が,思い思いに食事の支度にとりかかる。
 「みそ汁つくる?」「たまねぎあるかな?」 橋本広見さん(40)と野口智子さん(28)が一緒に料理を始める。自分のスープをよそって食卓についた坂元良江さん(65)は,向かいに座った斉藤彩子さん(22)に声をかけた。「明日から当番交代ね,洗剤は買っておくから」それを聞いて,当番のための買物リストをみんなでつくろう、と篠原康弘さん(27)が冷蔵庫の扉に紙を貼る。「いいな,僕の時と扱いが違うよ」藤原新也さん(33)がボソリと言うと,笑い声があがった。
 友達でも家族でもない人々が同じ家に暮らし、1年半。
 東京・世田谷の「松陰コモンズ」は築150年、かつては一族17人が住んだ広い木造の家屋だ。5年の期限でNPOが借り上げ、月4,5万で7人に貸す。風呂やトイレは共用,買物や掃除は当番制。食事は各自がまかなう。
                    (朝日新聞 2004年1月7日より)


© Rakuten Group, Inc.