僕の血は他人の血(15)
何度目の退院になるのだろうか。いつものように僕と由美は、荷物をまとめ、看護師さんたちに挨拶をし、エレベーターを待った。もしも、再移植と言うことになれば、再びあの付属病院に入らねばならない。そして、そうなれば、あの病院で死を迎える確率は高い。先を考えることは禁物だと自分に言い聞かせてはいるが、ついそんなことを考えてしまう。看護師さんたちもそんなことはわかっているのだろうが、彼女たちはただ笑顔で僕を見送っている。何だか、形式的な儀式のような気がしたが、それ故に僕は笑みを浮かべねばならず、それを知ってか知らずか、由美ははしゃいでいた。退院を素直に喜ぼうと僕は思っていたのだが、なかなかそうもいかないようだ。エレベーターに乗り込み、扉が閉まって、看護師さんたちの姿が消えた。扉の向こうでは看護師さんたちが哀しげな顔をしているような気がした。 退院以来毎日、自分の部屋で横たわっている。不思議なことに食欲が出てきて、量は大したことはないが、確実に食べられるようになってきた。やはり、精神的なものが大きかったのだろうか。少しずつ、動けるようにもなってきた。原田医師の見通しは正しかったようだ。ただ、僕の体が血を造っているかどうかはわからない。多少の改善は見られるようだが、週に一度行く病院での検査結果は、必ずしも良いものではなく、大抵は輸血をして帰ることになる。外に出ると夏の日差しを浴びる。現金なもので病院の中ではあれほど憧れた太陽の光がうっとうしく思えたりする。不思議なことに汗はほとんどかかない。夏はしかし、過ぎようとしている。発病して何年経つのだろう。長い夜はまだ明けず、僕は夢ばかり見ている。 僕の誕生日が来た。由美が小さなケーキを買ってきて、みんなで食べた。だが、長男の浩はもはやケーキを喜ぶ歳ではなくなり、二人の弟も何となく義務的であった。僕は僕で素直に誕生日を祝う気持ちになれず、何となく哀しい気がした。無理な笑顔は見破られたようで、最初ははしゃいでいた由美も、しだいに静かになり、やがて、ひっそりと片づけを始めた。また由美を傷つけてしまったかも知れないと僕は思い、自分の部屋に戻るのをためらって、子供たちと一緒に下らないテレビを眺め続けた。片づけを終えた由美に「ありがとう。」と僕は言ったが、とってつけたような不自然さがにじみ出たような気がしたので、あわてた。由美は「どういたしまして。」とやはり、とってつけたように言った。何だか僕は疲れてしまって、部屋に戻った。由美や子供たちとの距離感がつかめない。しばらく、離れて暮らしていたせいなのかどうか、自分の部屋に戻るとようやく落ち着いた気分になる。部屋に戻って、ふと腕を見ると数多くの針の痕があった。毎日のように刺された針の痕はなかなか消えないし、今でも週に一回は確実に増えている。しかし、考えてみれば、今は曲がりなりにも日常生活が営める。ひとりで着替え、トイレに行き、外出もできる。食事はまだ味を感じることができにくいが、それでもかなり食べられるようになった。こうして、少しずつできるようになったことを数えていくと、やや幸せな気分になれる。そう、入院中に学んだはずだ。遠くを見てはならない。 十月になり、秋が深まった。もう何度、病院に足を運んだだろう。またひとつ、季節が移る。いつものように待合室で長時間待たされた。通院での最大の仕事は待つことである。血液検査の結果が出るまでに一時間くらいはかかるので、最低でも二時間くらいは待つことになる。それに輸血が加わると大抵は朝から午後二時くらいまでかかる。まあ、考えてみれば発病してからずっと待ち続けているとも言えるのだから、今さら数時間待ったところでどうってことはないが。「森下さん、どうぞ。」担当の看護師さんに呼ばれて、診察室に入った。四畳ほどの縦長の部屋である。僕が入ると、奥の机の前で何やら書いていた原田医師がこちらに向き直った。その表情が柔らかかった。「森下さん、かなり数値が良くなっています。もう、再移植は必要ないと思いますよ。」僕の体から力がすっと抜けた。僕の中で何かが溶けたような気がした。「じゃ、輸血はもうしなくて良いんですか。」「いや、まだ二週間に一回程度は必要だと思います。特に血小板が少ないですからね。」僕は少しがっかりした。「なかなか、思うようにはいきませんね。」「まあ、森下さんの血は他人の血ですからね。そう簡単にはいきません。」原田医師はそう言い、僕は「他人の血」という言葉にちょっとした衝撃を受けた。僕の血は他人の血なのだ。僕の血は死に、他人の血が僕の中を流れ巡っている。今まであまり意識していなかったが、言われてみればその通りである。何だか自分が分裂したような気分になった。僕はどんな顔をしていたのだろうか。気がつくと原田医師が僕の方をじっと見ていた。「じゃ、今度は二週間後に来て下さい。」原田医師はちょっと不安そうにそう言った。僕の反応が鈍かったせいかもしれない。良い知らせを告げて、あまり喜んでもらえないと哀しいものだが、原田医師はちょうどそう言う気分なのかも知れない。「ありがとうございました。」僕は深々と頭を下げ、診察室を出た。 病院を出てもすぐには帰る気にはなれず、近くにある城へと行ってみた。病院の窓から毎日のように眺めていた城だ。街は秋の穏やかな光に満ちていた。本丸へと向かう石段は長くつらかった。長期にわたる病院暮らしは、僕の体から筋力を奪っており、一歩進むごとに体がきしんだ。観光客とおぼしき人々がそばをすり抜けていく。 ようやく、本丸前の庭園に着くと、そこにあるベンチのひとつに腰を下ろした。天守閣に上って街を眺めたいと思っていたが、とてもそんな体力は残っていなかった。息苦しさの中で天守閣を見上げてみる。三百年近くの歳月に耐え、誇らしげにそびえる天守閣は美しかった。病院から見るのと違い、異様な威圧感がある。黒い壁のせいなのか、戦いのための施設だからなのか、あるいは歳経るものが持つ力のためか、楽しげな観光客の声にはそぐわないその威容が僕を萎縮させる。 どうやら僕は生き延びたらしい。僕の人生はもう少し続くようだ。それが三年なのか五年なのか、あるいはもっと長いのかはわからない。再発の危険性も高いらしいし、再び教壇に立てるのかどうかもわからない。それは僕の中の「他人の血」に左右されることになるのだろう。 他人の血に生かされている自分。僕の中に他人がいるという違和感。僕は原田医師の「他人の血」という言葉から引き起こされた混乱に戸惑っていた。なぜ、自分がこんなに混乱しているのか、よくわからなかった。 いつの間にか夕暮れが近づき、空気も冷えてきた。僕は疲れ、また、あの石段を下りて帰らなくてはならないと思うとうんざりした気分になった。携帯電話が鳴った。僕の帰りが遅いのを心配した由美からだった。「今どこにいるの。」「城山にいる。」「何かあったの。」「いや、何もない。ちょっと来てみたくなっただけだ。今から帰る。」「じゃ、待ってるから。また、春になったらみんなで花見に行こうね。」「ああ。」 僕は電話を切ると立ち上がった。そういえば昔、みんなでここに花見に来たな。僕はようやくそのことを思い出し、その光景があまりに遠くに思えることに戸惑った。僕は長い石段をゆっくり下り始めた。上るよりもかえって苦しく、足がぎしぎし音を立てているような気がする。僕の中には見知らぬ自分がたくさんいる、とふと思った。人は自分の中に何人も見知らぬ他人を抱えている。自分とは思えない自分がかわるがわる顔を出す。とすれば、僕の中の他人がひとり増えただけで、何ということはない。また、僕は他人の血で生かされているが、考えてみればあたりまえのことで、人間はひとりでは生きていけないという単純なことに帰結する。誰もが他人によって生かされている。僕の中には具体的に「他人の血」があるだけで、その構造は同じだ。他人によって僕が生かされているならば、僕が他人を生かすことができるかも知れない。少なくとも今は僕を待っていてくれる者がいる。ただ生きるという最低限のことしか今の僕にはできないが、僕を待つ者がいる限り、どんなにつらくとも生き抜くべきなのだろう。 痛む足を引きずって、僕はまた石段をひとつ下りた。終わり、です。【返品・キャンセル不可】 芳香園製茶 産地銘茶詰合せ AY-503S 食料品 日本茶 一般お茶(代引不可)