玄奘三蔵をご存知ですか。
『西遊記』の三蔵法師といえば、御存じの方もおられるかもしれませんね。
玄奘三蔵は中国・隋の時代に生まれ、唐の時代に盛名を馳せた仏法僧です。
いまでは、三蔵法師といえば玄奘三蔵のことを指すようになっているが、もともとは釈迦の教えの「経」、仏教者の守るべき戒律の「律」、経と律を研究した「論」の三つを究めた僧を三蔵といい、普通名詞だったのだそうです。
大勢の三蔵法師がいたが、なかでも玄奘はきわめて優れていたので、今では三蔵法師といえば玄奘のこととなっています。
陳家13歳のときに僧に選ばれ、法名を玄奘と呼ばれることになります。
玄奘は25、6歳ころまで、仏法と高僧の教えを求めて、中国各地を巡歴しました。しかし、修行が深まるにつれて教えに疑念を懐くようになります。
漢訳経典にその答えを求めますが、各地の高僧名僧も異なる自説をふりまわして、玄奘の疑問を解くにはいたらなかったようです。
このうえは、天竺(インド)におもむき、教義の原典に接し、かの地の高僧論師に直接の解義を得るしかほかに途はないと思い立ちました。
玄奘は決心して、27歳のとき、国禁を犯して密出国します。
玄奘の旅は、草木一本もなく水もない灼熱のなか、砂嵐が吹きつけるタクラマカン砂漠を歩き、また、雪と氷にとざされた厳寒の天山山脈を越え、時に盗賊にも襲われる苛酷な道のりを旅して行きました。
このときのお話が『西遊記』になったのです。
三年後に、ようやくインドにたどり着き、中インドのナーランダー寺院で戒賢論師に師事して唯識教学を学び、インド各地の仏跡を訪ね歩いたのでした。
帰路も往路と同じような辛苦を重ねながら、仏像・仏舎利のほかサンスクリット(梵語)の仏経原典657部を携えて、に長安の都に帰ってきました。
この年は、日本では、中大兄皇子(天智天皇)が中臣鎌足らと謀って、蘇我蝦夷・入鹿親子を減ぼした「大化の改新」の年にあたるのは歴史の面白いところですね。
玄奘のインド・西域求法の旅は、通過した国が128国、実に3万キロに及んでいたとは驚きですね。
すでに、唐を発って17年の歳月がすぎ、玄奘はこのとき44歳になっていました。
密出国の出発時と違って、彼の帰還は時の唐の帝・太宗の大歓迎を受けます。太宗は、国境近くまで出迎えの使者を出すほどであったとはなんとまあ、支配者の考えることは分かりませんね。
玄奘は帰国後、持ち帰った仏典の翻訳に残りの生涯を賭けます。
皇帝からは政事に参画することを求められたが、仏典漢訳に余生を集中することの理解をえて、翻訳事業に対して帝の全面的な支援を受けたのだそうです。
玄奘三蔵は62歳で没するが、訳業19年、死の間際まで漢訳への翻訳に打ちこんだとは有り難いことですね。
それでも、持ち帰った経典の約3分の1しか訳せなかったというくらいですから、本当に大量の仏典を持ち帰ったのですね。
玄奘三蔵が翻訳した経典の数は、大般若経600巻をはじめ74部1335巻にのぼるそうです。
また、今日本で最も読誦される「般若心経」の基となったのは、この大般若経なのだそうです。
私たちがいま、「般若心経」やそのほかのありがたい経典に触れることが出来るのはこの玄奘三蔵さまのおかげなのですね。
その玄奘三蔵さまのご頂骨を真身舎利として奉安し、須弥壇に玄奘三蔵訳経像をお祀りしているのがこの↓玄奘三蔵院伽藍・大唐西域壁画殿なのです。
ここはから振り向くと薬師寺の金堂、西塔、東塔が見事に見えます。
大唐西域壁画殿には、平山郁夫画伯が30年の歳月をかけて完成された玄奘三蔵求法の精神を描いた壁画を絵見舎利としてお祀りしてあるのだそうです。
玄奘三蔵院伽藍・大唐西域壁画殿は春季・秋季に一般公開されているのだそうです。
あ~、見たかったな~。
また、来なくちゃいけなくなってしまいました。(笑)