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斎宮歴史博物館を出て、斎王の森に向かいます。
斎王跡のシンボルゾーンとなる史跡公園です。 斎王跡を示す石碑がありました。 大伯皇女の歌碑です。 わがせこを 大倭(やまと)へ遣(や)るとさ夜更けて あかとき露に わが立ち濡れし 【意味】大倭(やまと)へ戻っていく弟を見送る私は, 真夜中から暁にかけておりる露にすっかり濡れてしまったことよ 大伯皇女(おおくひめみこ)のお歌です。 父は天武天皇、母は天智天皇の皇女である大田皇女 (実弟は大津皇子)。 本来はその大田皇女が皇后になるはずだったのですが、若くして亡くなったため、母の実妹である鵜野讃良皇女(うののさららひめみこ)が皇后となりました。(のちの持統天皇) 当時は母方の血が重要視されました。 母を亡くした二人にとって叔母である鵜野讃良皇女はたった一人の後見人であるはずでした。 しかし自分の子である草壁皇子の軟弱さに比べ甥である大津皇子の聡明さ、凛々しさ、逞しさ…。 その上、人望の厚いのです。 どれをとっても比較にならないことに不安を募らせる皇女。 自分のおなかを痛めた子に即位を…。 そう願った鵜野讃良皇女を責めるわけにはいかないのですが。 だがこのことが、この姉弟を悲劇へと導きます。 天武天皇亡きあと、ついに鵜野讃良皇女が動いたのです。 策略を持って大津皇子の失脚をもくろびました。 謀反の疑いをかけられた大津皇子…。 命の危険を感じた皇子は当時伊勢の斎宮であった姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)を、密かに訪ねます。 この世に、たった二人きりの姉と弟…。 どういう話がなされたのかうかがい知ることは出来ませんが…。 大和を捨ててどこか誰も知らない土地に弟を逃がしたいとおもったでしょう。 しかし、それははかない夢。 夜更けて、政争うずまく大和(やまと)へ戻る弟を、ひっそりと見送る大伯皇女の心情を思うとき、胸が痛みます。 磐余(いわれ)の地で果てた命でした。 百伝(もも)伝ふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ 【意味】磐余の池で鳴く鴨を見ることも今日を限りとして、私は死んでいくのであろうか 『万葉集』には、大津皇子が死罪と決められた時、磐余の池の堤で、泣く泣く作った歌です。 ↑写真は以前、桜井の磐余池跡へ行った時のものです。 ↑は二上山の頂上の大津皇子のお墓と言われているところです。 (本当にここに埋葬されているのかはわかりませんが…。) うつそみの 人なるわれや 明日よりは 二上山を弟(いろせ)とわが見む 【意味】現実の世に残された私…明日からは、あの二上山をいとしい弟だと思ってながめることにしましょう。 残された大伯皇女は大津皇子が葬られた二上山を眺めては愛する弟を偲んでいたことでしょう。 私が高校生くらいの時にこのお話を読み、泣きました。 当時、ちょうど私はとても仲良しの弟がいて弟は高校で寮に入っていたのです。 もちろん私の弟は自分で言い出して親を説得して寮に入ったのだから全然意味は違うのだけでも、私にとっては仲良しの弟と離れてしまうことを悲しんでいたので、なんだか勝手に大津皇子と大伯皇女を自分とダブらせてしまって…。 私の歴史好きが始まったのはそれも一つのきっかけだったのかも知れません。 もちろん、そんな本ばかり読んでいたのでもともと好きだったのかも知れませんがより深く興味を持つようになったのは確かです。 今でも、職場から二上山を眺めてはしょっちゅう大津皇子と大伯皇女を思い出しています。 話がずいぶん逸れてしまいました、すみません。 伊勢の斎宮の森に戻しますね。 大伯皇女の歌碑のすぐ横に井戸跡がありました。 井戸跡があったということは祭祀をする上で重要なところであったのでしょうね。 さて、次の目的地へ急がなくてはなりません。 石塚古墳群の上に夕日が沈みます。 古代から同じ夕日を見ていたのかも知れませんね。 最後にどうしても行きたかったのは竹神社です。 参宮街道沿いにあり、厳かなムードをたたえています。 周辺の発掘調査で大規模な塀列や掘立柱建物の跡が見つかり、斎宮の中でも重要な位置を占めていたらしいのです。 本殿も立派です。 暗くなってきました。 ギリギリセーフというところでしょうか。 さて、今回のお伊勢さんは内宮と外宮にお参りすることはできませんでしたが、違った意味でとても良かったと思います。 ちょっと見逃したところや体験しそこなったものもありました。 また、もう一度おいでと言われているようです。 まだまだ伊勢に居たいのですが、後ろ髪を引かれる思いで後にしました。 絶対にまた来ます。 来れば来るほど伊勢は好きになりますよね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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