「栗林公園を、こう見るとおもしろい」
「栗林公園を、こう見るとおもしろい」平成十五年に、私が、書いた原稿です。中野町80周年記念誌「ふるさとなかの」平成十五年四月一日発行ふるさとなかの編集委員会高松市芸術文化活動助成事業中條文化振興財団助成「栗林公園を、こう見るとおもしろい」一、小普陀は、夢窓国師風の仏教庭園中野町に住んでいると、栗林公園も、自分なりの見方をして楽しんでいる。栗林公園の始まりは、現在「小普陀(しょうふだ)」と呼ばれている一帯と推測されている。通説の生駒藩の、佐藤道益の庭からというよりも、それ以前ここに仏教寺院があったと考える方がおもしろい。戦後の発掘により、小普陀は室町期の築山枯山水風の手法を有している事がわかった。その姿は、夢窓国師の西芳寺庭園の面影をたどることができる。南側には江戸時代の観音営の礎石跡があるが、この庭は北側から見るように作られている。ここに仏堂を想像すると、この庭は完結する。二、西湖は西嶋八兵衛による調整池生駒家は豊臣の時代に讃岐の領主となった。徳川時代になり、生駒藩の政務をあたった藤堂高虎は土木工事に明るい西嶋八兵衛を呼び寄せて、讃岐一円の水利の開発と、香東川の大改修を行わせた。「西湖(せいこ)」はその元の香東川の伏流水を逃がし水量を調整する為に築かれた池と考えられる。その指揮所が「会倦巌(かいせんがん)」であろう。三、南湖は小堀遠州風の「心字」池治水が終わり、次に「南湖(なんこ)」が掘られた。藤堂高虎の養女の夫は大名庭園の大家の小堀遠州である。小堀遠州は、同じ頃に京都で二条城、仙洞御所の造営を行っていた。その様式は回遊式庭園である。池の形が、ひょうたん型で島が三つの形は「心字池」と言われているが、「南湖」がその「心字」を示している。小堀遠州が直接関わった記録はないが、南湖はこの遠州の影響を受けて造営がなされている。この南湖の北岸に「飛猿巌(ひえんがん)」という公園中、最も巨大な石組みがある。ここが佐藤道益の居邸があったともいわれているが、砦のように堅固である。作庭では池の形が定まったら、庭中第一の石で札拝石を立て、そこを起点に池を三角形で囲むよう対岸対向に配石するらしいが、「飛猿巌」こそがその礼拝石にふさわしい。対岸は「楓岸(ふうがん)」の石、対向は「掲月亭(きくげつてい)」の石だろうか。四、北湖を「九字」池に拡張ついで「北湖(ほっこ)」が拡張されたのではないかと思う。「夢窓流治庭(むそうりゅうちてい)」という書物で、池の形は「心字形、水字形、流水形、九の字形」にする事が述べられている。九字は行者の魔除の意か、宮を象徴する韻が含まれているらしい。先の南湖は心字池で完結するように造られているので、拡張する際に「九字」を採用し「北湖」の地割がされたと考える。仙洞御所にならって北に池を配置し、「吹上(ふきあげ)」からはじまる「九」の草書体形に地割をし、「北湖」から「南湖」を通り、最後に「西湖」で終わらせる。そこから「北湖」の存在意義が見えてくる五、南庭の池を右に見て回ると昭和三十年の「高松の名勝」で栗林公園は「左から右に常に池を右内側に見て廻りながら鑑賞するように設計され」と記述されており、なるほどと思った。現在、観光客は南庭を右折して赤い「梅林橋」から回っているが、これでは池を左側に見るので逆廻りになる。そこで左折して「花園亭」へ向かい、先ず「美蓉峰(ふようほう)」を登る。そこから紫雲山を借景とした「梅林橋」を見ると、遠く旅に出た思いにかられる。船蔵を過ぎ、「飛来峰(ひらいほう)」を登ると栗林公園随一の景色を見る。紫雲山、目指す「抱月亭」、南湖の島々や丸い「偃月橋(えんげつきょう)」らが、まるで浄土図のように広がっている。吹上を、三途の川のように飛び越え、紅葉が染みる南端の「楓岸」をくぐり、池に映る「掬月亭」の視界を陰陽石で魔除け越し見る。今は切り株だけの門松を抜け、「留玉梁(りゅうぎょくりょう)」を渡り、建物へと入る。生駒家から引継ぎ一六四二年に入封した初代藩主松平頼重公も、現在の商工奨励館西に「桧御殿」を建て、この池を右にみるルートで回ったであろうと思った。しかし、これでは帰り道の西湖は左手に見るようになり回遊は完結しなくなる。六、涵翠池は、帰り道に右に見る池そこで、帰り道に右手に池が見えるように掘られたのが「涵翠池(かんすいち)」ではなかろうか。ここから二本の川筋が出る。一本は「旧日暮亭(ひぐらしてい)」が建つ「夏玉亭(かつぎょくてい)」へ、一本は「青渓(せいけい)」から「日暮亭」へと誘導されていく。第二代藩主松平頼常公の頃、災害で困窮する領民への失業対策として庭が改修された。領内の奇石珍木を集めさせ、それを持って来た者から買い取った。この時集められた美しい石が「涵翠池」の「瑤島(ようとう)」に配置されたのであろう。七、潺湲池は、聞く池公園は、北の「貝ノ口御門」から入るように設計されている。今は芝生広場が広がっているが、これは明治時代に改修されてたもので、江戸の古図には、高い白壁の塀で遮断された道筋が描かれている。藩主は、北門から入ってこの白壁に添って進んでいく。だんだん壁の遠くから渓流の音が聞こえてくる。「潺湲池(せんかんち)」の音である。白壁が切れて、木々の間からシャワシャワと泡をたてながら流れる美しいこの池の姿が右に見える。そして「石梁」を渡り白壁塀の御殿へと入る。明治になり「潺湲池」の大半は埋め立てられ丘になり規模は縮小されたが、現在もその構造は残している。庭の地割りから見ると、この「潺湲池」は、九字の最後の跳ねに相当する部分であり、九字の未完を補ったとも考えられる。八、北庭の拡張を「水字」池に二代頼常公は、失業対策としてさらなる公園の拡張も推し進めた。この時に先の「夢窓流治庭」に書かれている「水字」池に拡張し、現在ある北庭の「芙蓉沼(ふようしょう)」「群鴨池(ぐんおうち)」が掘られたのではなかろうか。二代頼常公の「御林御庭図」にはすでにこれらの池が描かれている。九、「作庭記」で再構成五代藩主頼恭(よりたか)公の時代に大改修が行われた。一七四五年の「御林御庭図」「栗林荘記」には、名所の呼び方が現在使われている名称に変更された事が記されている。その改修にあたって参考にした古典の一つが、「作庭記」であろう。その中に「昼は紫雲がたなびき、夜は霊光を放つ五葉の松があり」を見て公園の「紫雲山」「五葉松」を連想させる。「掬月亭」の名称は于良史の詩から採られているが、建物の根拠は作庭記の「唐人の家には必ず楼閣がある。楼は月を見るため、閣は涼しくするためである」に因っているに違いない。「釣殿の柱に大きな石を据えるのがよい」では建物を寝殿造り風に、東から西への流れに浮かぶ大きい石で柱を支えて掬月亭」ができた。さらに「滝は方策を講じても月に向かうべきである。それは落ちる水に月影を宿らせるためである」に由り、湖上の月影を揺らす滝を吹上に作った。「掬月亭」を含む建物は、今は五棟だが、以前は七棟で構成されていた。中国では北斗七星は天子を象徴しており、建物をその形に配し「星斗館(せいとかん)」と呼んだ。この建物の軸線を皮亥(北西)方向に向け、作庭記の寿福を保つ記述に添い、建物脇の川筋を北西で止めている。「星斗館」から四神相応に従い、東の青龍側には「臥竜梅(がりゅうばい)」、西の白虎側には大きな道にみたてた「鹿鳴原(ろくめいげん)」、朱雀の南側に「赤松林」、玄武の北側に「黒松林」と「修然台一(しゅうねんだい)」の丘をそれぞれ配した。これの他にも、鬼門の丑寅(北東)には、毘沙門天が記られ、悪いものが出て行く未申(南西)には観音堂が建てられている。水は、北から南東筋で死ぬと伝えられ、そこには鴨場が作られた。玄武は亀に似た空想の動物で、北に亀阜荘跡(現小学校)がある。このように見て、私なりに栗林公園を楽しんでいる。南正邦