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折れず曲がらず良く斬れる

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2005.04.19
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テーマ:新撰組!(305)
 新撰組2番隊組長・永倉新八(1839~1915)のお墓が岡山市にあります。

 お墓は岡山市飽浦の松光院にあり、95年に生家の子孫にあたる永倉達朗(69歳)さん(岡山市南輝在住)が建立した新八供養碑もあります。

 永倉新八は新撰組二番隊組長、沖田総司、斎藤一と並ぶ剣の名手。

 永倉新八は天保10年(1839年)4月1日、睦奥国松前藩士長倉勘次の次男として江戸下谷三味線堀の藩邸長屋で生まれた。幼名栄治。なお、長倉勘次は江戸定府取次役を勤めた人物である。

 8歳で岡田十松の神道無念流に入門。18歳で免許皆伝の腕前となる。18歳で元服した時より名を新八と改めた。

 新八は19歳の時剣術修行の為に脱藩、長倉を永倉と改めた。脱藩に際して親族に迷惑がかからぬためという。

 本所亀沢町の百合元昇三の道場で剣を学んだ後、親友の市川宇八朗(後の靖兵隊隊長芳賀宜道)と武者修業の旅に出る。 江戸に戻り、心形刀流伊庭軍平の門人坪内主馬に見込まれ、師範代を勤めたりもしたが、近藤勇と知り合い、試衛館の食客となる。

 新撰組では、副長助勤を務め、数々の事件に出動した。池田屋事件で、刃を折り指の付け根を斬られたり、禁門の変で負傷したりしている。また、増長した近藤に反発した隊士と共に建白書を会津藩に提出している。会津藩の仲裁で事なきを得たが、葛山武八郎が切腹となっている。

 鳥羽伏見の戦いでは、永倉率いる二番隊が活躍するも、新撰組は近代兵器の前に惨敗し、その後撤退を重ねる。撤退する際、鎧が重くて塀を登れず、島田魁に引き上げてもらったという。

 甲陽鎮撫隊として出陣・敗走後、原田左之助、矢内賢之助らと共に新撰組を脱退し、芳賀宜道(市川宇八朗、旗本の芳賀家に養子となり改名)と靖兵隊を結成。大鳥圭介率いる伝習隊と合流し、宇都宮攻撃にも参戦。壬生城の戦では、永倉は腕を負傷しつつも戦った。結城総督の下靖兵隊は茶臼山で戦い、今市宿での戦闘においては矢内賢之助が戦死。
会津へ救援に向かう途中、米沢藩へ会津救援要請に向かうが、米沢藩は援軍を出せる状況になく、若松城は落城し、永倉は江戸に帰還。

 永倉は明治2年2月松前藩帰藩を許され、50石を与えられ江戸下谷三味線堀の藩長屋に居を構える。明治3年に松前に移住し、明治6年には150石を与えられている藩医杉村松柏の娘、杉村よねと結婚。杉村家の養子となり、明治8年には家督を継いで名を杉村義衛と改めた。

 その後、北海道小樽へ移り、明治15年から19年まで北海道札幌樺戸監獄で剣術師範を勤める。退職後は東京に移り、牛込にて剣術道場を開く。

 永倉は明治9年5月1日、東京板橋に新撰組殉難者墓碑、殉節両雄之碑墓を建立した。資金を集めるため、用番をしながら松本良順筆の書を売り歩いたという。

 永倉が戦いの最中、着用した陣羽織の裏地に書かれた和歌は、文久3年の浪士隊参加に際して両親に送ったものである。

 武士の節を尽して厭まても 貫く竹乃心一筋

 新撰組隊士として京都にいた永倉は、慶応3年7月に島原の芸者小常との間にお磯という子をもうけた。小常は出産後に亡くなったため、お磯は小常の姉に預けられた。
大政奉還後、屯所の引き払いに際して永倉は我が子と面会する。顔を見るのもこれが最後、という気持ちであった。三十数年ぶりに再会すると、お磯は尾上子亀という名の、人気役者になっていた。

 明治32年小樽に戻り、大正4年1月5日、虫歯の悪化による骨膜炎、敗血症の為死亡。
享年七十七歳。

 永倉新八の活躍は、大正2年3月17日から6月11日にかけて小樽新聞に連載された。杉村義衛(永倉新八)自身による語り残しであり、後に子息の義太郎がこれを同志連名記と共に本として纏めている。これが「新撰組顛末記」(原題:新撰組永倉新八)である。



 





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最終更新日  2005.04.20 13:20:28
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