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高野山奥の院参道の芭蕉句碑 「ちちははのしきりにこいし雉の声」 貞享 4年(1687)芭蕉43歳10月江戸を出立した「笈の小文」の旅で 翌年ふるさと伊賀上野に滞在した後、吉野から高野山を訪ねた時の句 です。芭蕉も丁度3月の同じ時期に訪れています。 文字は江戸時代中期の画家、書家、池大雅(いけのたいが)の書 、大雅が絵を書き蕪村と共作を残している人です。 芭蕉は、寛文6年(1666年)に仕えていた良忠が亡くなったのち遺骸を 高野山の報恩院に納めているといわれています。 奥の院参道・中の橋を過ぎて御廟に向かって左側に句碑はあります。 藤堂家墓所 奥の院、御陵からの帰り道、中の橋を過ぎ右側に上杉謙信、霊屋、左側 に武田信玄、勝頼供養塔の間に藤堂家墓所はありました。 供養塔、四代目藤堂高睦 (とうどう たかちか) を主に供養されていました。 四代目の母親も供養されていました。 初代高虎や他の藩主の塔に気がつきませんでしたが帰ってから調べまし たら立札の下側も藤堂家供養塔でした。 藤堂家墓所の立札を見つけて喜び登ったので気がつきませんでした 。 文禄四年(1591年)に仕えていた豊臣秀保が亡くなると高野山に入り高室院 に住んでいたので高野山に供養塔がないはずはないと思っていたのでが 残念です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017年03月26日 17時25分10秒
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