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カテゴリ:塾
世の中の塾における、国語の授業の立場について。
前の塾にいるときに思ったのだが、どうしても塾においては国語というのはなめられがちなもので、 「国語なんて方法ないんだから、どうせ誰がやっても同じだよ」 「新人の先生? じゃあとりあえず国語の授業入れといて」 みたいな扱いを受けることがしばしば。 まず、授業に入る前に本文読んでないとか、本文の吟味してないとか、実際に授業に入る先生の何人かはなんとなくでやっているのが実情。 ぼくは今週の授業では、漢字以外の時間はひたすらしゃべってました。 黒板に本文で述べられている対立概念をわけて、生徒に線を引かせたり四角で囲ませたりしながら本文を読むといういつものパターンですが、本文の流れを整理して、問題を解くために必要な最低限の知識は与えたつもり。 時間足りなくて、ちょっと延長したりもしたけど。 小学生の予習シリーズは本文の量が多くて、読むだけで時間とられるけど、中学生のワークは本文が1ページもなくて問題も簡単です。 ただ読んで、問題を解くだけなら50分は長い。 それで、国語の授業で時間が余ってしまうなんていう声を聞いたのですが、なーにいってんだか。 ぼくは中学生の授業でも、やっぱり時間足りません。 問題のパターンとか選択肢の吟味とか、物語の形とか段落構成とか話してたら、2時間くらいはしゃべっていられる。 その2時間ぶんのネタを持って行って、それをしぼってしぼって50分で話すのが、本来だと思うのです。 100持って行って100話すのと、200あるうちから選んで100話すのとでは、密度がちがうのは明らかです。 ましてや、授業前になんもしないで、思ったことをしゃべっているのでは、それはちょっとどうかと思う。 ぼくの授業は生徒がうるさくなりがちなので、よく「笑わせているひまあったらまじめにやれよ」とか言われます。 たしかにうるさくなるのは、こちらの能力の不足によるものですが、 でも、ひとつ言っておきたいのは、ぼくは授業の前に笑いのネタを仕入れていって、それを話したりすることはないし、本文と関係ないことを話していることはないです。 ぼくが笑いをとるとしても、国語だったら本文のテーマで本文の内容で笑いを取る。 笑いを取ってしまうのは性分のようなもので、それもよしあしなんだけど、でも関係ない話はしないというのがぼくのプライド。 今回の国語だったら、「科学とは人間の生活からかけ離れたものでなく、もっとわかりやすく身近なものだ」という本文の主張でトークを展開するようでなくては、自分で納得しません。 内容とか流れを理解するための引き金も、過程も、到達点も、すべて本文の内容から離れない、というのは、当たり前だと思う。 たとえば小説だったら、本文にあげられている場面以外のこともしっておいたほうがいいと思うので、授業前にその小説をぜんぶ読むくらいのことはします。 読んでも、授業でそれをつかうことはないかも知れない。 というか、ほとんど必要ないんだけど、でも読む。 それは、授業を受け持ったものとしての責任でもあるし、授業を充実させるための保険でもある。 予習シリーズにしろ、中学ワークにしろ、何年かはその教材をつかうんだから、それくらいしてもいいと思うのですよ。 そこまでしてはじめて、自信持って生徒の前に立てると思うから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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