炎の独りゴマ

2018/03/20(火)13:27

母と私7

母と私(10)

退院へのプレッシャーは、 母にだけではなかった。 私にも父にもあった。 強制的に家に返される流れの中、 私は、折り畳み式の電動ベッドを 購入。 通院のための車椅子を購入した。 介護保険があるので、 安価で借りられる。 そんなことは知っていたが、 今や明日にでも強制退院させられる 流れに対応し、長期の出費を前提に すれば、特な選択なはずだった。 あくまで長期通院、長期介護を 覚悟しての選択である。 父は、苦汁の選択、苦悶の表情で 抗がん剤の書類にサイン。 切除不可能となったガンを 進行を緩めたり、あわよくば ガンを殺す可能性を示唆されると サインせざるを得ない。 いかんともし難く、歯がゆい想いがある。 母は、ホルモン剤から始まり、 抗がん剤、睡眠薬まで、そのすべての 薬に恐怖した。 そもそも薬が好きではないし、 耐性もないのだ。 苦痛の時間が増え、 意識が朦朧とする時間が増え、 嫌がおうにも、母に死の恐怖が 都度襲うようになった。 ホルモン剤を処方されたころには、 無理矢理リハビリさせられたものの、 一人でトイレにいけるほどに 回復したのに、抗がん剤処方から 体力がなくなり、ギリギリの運動といえた【座ること】さえ、 ほとんどできなくなった。 運動的にはできるのだが、 15分程度座ると一時間以上は、 眠る必要がでるようになってしまった。 あの奇跡的な回復は、 ただのホルモン剤の副作用だったのだろうか。 私ができるのは、毎日車で片道二時間 の道を駆けつけ、身の回りをきれいにして、 ご飯を食べさせることだけなのだが、 栄養は、点滴で足りているともされ、 消化能力さえ弱った母には、 食事さえ、毒とも言えたのかもしれない。 母の食も、目に見えて細くなった。 元々ふくよかだった母の体は あり得ないほど細くなっていたが、 末期ガンを抱えた母の最後のエネルギー源は、 脂肪と考えていた私は、 とにかく食事をとる人間活動に すべてを賭けていたし、 それしかなかった。 抗がん剤は、二週間ペースで 投与するルールになっており、 母は、全く回復しきらないまま、 その二週間を費やしてしまった。 そして医師から二回目の抗がん剤投与の 宣告がなされる。

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