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マックス爺のエッセイ風日記

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2009.04.29
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カテゴリ:日本史全般
歩く人 政宗と愛姫 おとめ座


 荒波悠々と流れる磐井川。その川面を忙しく飛び交うツバメ。川の遥か上流には、雪を戴いた栗駒山が望める。まるで一幅の絵を観るような風景だ。川は曲がりくねって、やがて北上川と合流する。富士山


6) 柳青み 川面に燕 翻る  <磐井川>

7) 栗駒の 雪も霞みて 桜かな  <同>


 さくら目駅前からもわずかに見えた左手の小高い丘。そこにも満開の桜が春の日を受けて咲いていた。ひょっとしたらあの丘が一関城があった場所じゃないだろうか。天守閣はおろか、石垣すらない丘だが、直感的に私はそう思った。それにもしあそこが城であれば、その北を流れる磐井川は城を守るのに役立つはず。ウィンク


8) 磐井川 古城の岡に 桜かな  <同>

 
 パソコン帰宅した数日後に調べて見ると、俳句の対象となった丘の名前が釣山と呼ばれていることが分かった。さらに調べるを重ねると、やはりあの場所にかつての一関城が置かれていたのだ。何という偶然。そして何という直観力だろう。私の勘はやはり当たっていた。初代の城主は伊達政宗の叔父に当たる人。仙台の伊達藩から見れば、ここは支藩になる。ウィンク

 おとめ座政宗の正室である愛姫(めごひめ、又はよしひめ)は、今の福島県田村郡を支配していた田村氏の出。その田村氏は征夷大将軍としてあまりにも有名な、坂上田村麻呂の末裔と言われている。だが当主田村清顕には愛姫のほかに子はなく、そのままでは家が絶えてしまう。数え年12歳の愛姫を嫁がせる時、やがて二人の間に何人かの男子が誕生した場合は、そのうちの1名に田村家を継がせると言う約束があったようだ。オーケー

 涙ぽろりだが、政宗の進言を入れて秀吉の小田原攻めに遅参した清顕は秀吉から所領を没収され、皮肉なことにその所領を政宗に奪われた形になった。以後田村の家臣は仕えるべき家を失って浪々の身となった。彼らの政宗に対する恨みは深く、一時政宗と愛姫の間が不和となったのも、これが原因だったのかも知れない。失恋?

 きらきら田村家再興の夢は政宗と愛姫の間に生まれた第2代藩主忠宗の三男、宗良の誕生でようやく実現する。宗良は岩沼3万石を与えられ、後にここ一関に移った。一関藩は3万石。やがて3万石以下の小大名は幕府直轄の譜代大名扱いとなり、「本家」の伊達とは微妙な関係になる。江戸城松の廊下で刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭長矩が、切腹を命じられるまでの間預けられたのが、一関藩江戸屋敷であった。びっくり

 どきどきハート愛姫は政宗との間に4人の子を設けた。長女五郎八(いろは)姫は家康の次男松平忠輝に嫁す。長男(政宗にとっては次男)忠宗は仙台藩主。次男宗綱の下にも夭折した三男の竹松丸。愛姫は一時キリシタンだったとも言われているようだ。政宗の死後は仏門に入り、陽徳院と号して松島の瑞巌寺で夫の菩提を弔った由。どくろバイバイ

 いなずまきらきら瑞巌寺本堂の補修工事が間もなく始まり、本堂が公開の対象から外れるとのこと。これに代わって初めて公開されるのが国宝の庫裏(くり:台所)と愛姫の墓所である宝華殿(ほうげでん)。政宗の墓所は仙台の霊屋にある瑞鳳殿。政宗より長命だった愛姫は、政宗が庇護した名刹に葬られることを願ったようだ。宝華殿は今回の公開を控えて大改修を施し、本来の輝きを取り戻した由。公開されるのは数年間なので、是非見てみたいものだ。マル秘

 うっしっしさて、もし一関駅で改札口を出なかったら、俳句の幾つかは生まれていなかった。それより何より、一関藩のことを調べる気も起きなかったろう。仙台藩とその支藩の運命については、紙数の関係で明日に譲ろうと思う。バイバイ<続く>


ノート メモ えんぴつ

 日本酒ビール目がハート今日は走友会のお花見の日。もちろんソメイヨシノは散っていますが、花見の名所にはたくさんの八重桜もあるのです。花より団子?それとも大虎?泥酔すると日記が書けなくなるので、今日は早朝のブログ更新となりました。大笑い
 





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Last updated  2009.04.29 06:29:18
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