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マックス爺のエッセイ風日記

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2010.10.21
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カテゴリ:日本史全般
富士山足跡 四方峠を訪ねて 自転車

家? 県道12号線をさらに北上して曲竹地区まで来た時、「重要文化財我妻家住宅」の標識発見。さほど遠くないはずと判断し、見学に行く。残念ながら日曜日にしか開いてなかったが、外から住宅の様子が見えた。我妻(あがつま)家は鎌倉時代から続く旧家で、戦国時代末期から江戸時代の初期までは、刈田嶺神社の神職を務めていたようだ。このため今でも「禰宜(ねぎ)屋敷」と呼ばれている。びっくり!

ほえー! 江戸時代は旧曲竹村の肝入を勤める豪農で、農業の傍ら紅花や木綿の商いも手掛けていた我妻家の敷地は千坪。主屋は桁行が25間(38m)あることから、「二十五間」とも呼ばれていた由。主屋、文庫蔵、前蔵、板蔵、穀蔵、表門が重要文化財に指定。村民を飢饉から救うための蔵も備えていたと言う。家の前を流れている小川は、さながら堀のような佇まいだった。目がハートグッド

ノートえんぴつ 昨日日本武尊(やまとたけるのみこと)のことについて記したが、今日になって尊が現在の三重県で最期を迎えたことを知った。宮内庁の参考陵墓が三重にあるほか、奈良、大阪にも陵墓がある由。尊は亡くなった三重から白鳥に姿を変え、都に向かって飛び去ったとか。白鳥になったのは妻の弟橘媛ではなく、彼自身だったようだ。ひよこお化け

 相模灘で妻が海に身を投げた時、尊は「吾妻はや」と悲嘆に暮れた。それ以降関東の地を「あずま」と呼ぶようになったとか。日本武尊を祭神とし、白鳥大明神の別名を持つ神社の神職の名が我妻氏だったことを単なる偶然とは思えなかった。吾妻も我妻も同義だからだ。なお、我妻(わがつま、あがつま)姓および白鳥姓は、宮城県内では結構見受ける姓だ。ダブルハート

自転車足跡 「笹谷街道」への分岐点は蔵王町役場の脇にあった。ここからかなりの急こう配が始まる。それにしてもこの新しく広い道が本当に旧街道だったのだろうか。心配になって周囲を見ると、「道中まつり」の幟が目に入った。翌日の日曜日がそのお祭りのようで、大名行列が再現されるようだ。多分間違いはないのだろうが何だか不安。しょんぼり?

歩く人スピーカ 自転車の籠に3匹の子犬を乗せた男の人が坂を下って来た。彼に四方峠のことを聞く。「しほうとうげ」と言うと「しかたとうげ?」と聞き返すが、この道で間違いはないようだ。だが仙台から来て仙台へ帰ると言うと、「ずっと登り坂だよ。どこかへ泊るの?」と今度は驚いたような声。人家のない寂しい道をさらに登る。上向き矢印

自転車バイバイ 今度は自転車に乗る老人と遭遇。トンネルを潜ると峠への道があり、手前に石碑があるとのこと。さらに坂はきつく、とうとう一番小さいギアで登るしかなくなった。疲労で膝が痙攣し出す。もう我慢の限界かと覚悟した時、目の前に東北道。お爺さんがトンネルと言ったのは、東北道の高架橋のことだった。信号

目 入口に立派な「羽前街道」の標柱。そして「道中まつりの」案内板とテントが何張りか。ここからは本格的な山道。もう自転車を押して歩くしかない。間もなく「関所」に見立てた小屋があった。その中に猿鼻宿に立ち寄った大名の大きな名札が掲げられていた。びっくり!

○ 秋田二十万五千石 佐竹右京大夫
○ 鶴岡十三万石   酒井左衛門
○ 新庄六万八千石  戸澤大和守
○ 山形六万石    秋元但馬守
○ 本荘二万石    六郷兵庫頭
○ 天童二万石    織田若狭守

ノートえんぴつ どれも日本海側の藩ばかりだ。奥羽山脈を眺めながら遥々と旅し、海抜800m以上の険しい笹谷峠を越え、この寂しい山の中を通って宮から奥州街道へ入ったのだ。お金もかかるし、体の負担も相当大変な旅であったことが実感出来た。それにしても最上氏亡き後の山形が分割されたとは言え、わずか6万石だったとは。ほえー?<続く>
 





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Last updated  2010.10.21 18:28:37
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