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マックス爺のエッセイ風日記

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2011.11.09
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< どくろ謎のオランダ墓ほえー? >

 クラブさくらこの島ではセミが鳴いていない代わりに、何種類かの蝶々を見かけた。島の北側は畑で、植えられていたのはカボチャ、サトウキビ、紅イモ。レストランや休憩所や宿泊施設は30個所ほどあったが、その大部分は既に閉鎖された感じ。まず立地が悪く、施設も貧弱。メニューの「海ブドウ丼」や「イセエビ」は、漁期との関係から一年を通じて提供するのは難しいはず。何よりも島が小さ過ぎて、休まずに通過する車が多いと思う。車バイバイ

 びっくり!戻ったものの橋がない。真下からだと角度の関係で橋が見えないのだ。橋の上到着は8時56分。一周するのに約1時間かかったが、坂道のため案外距離があったのかも知れない。10kmほど海上を隔てた大宜味村辺りに、光が差している。最北端の辺戸(へど)岬は雲の中か。風が強く、2kmの橋を21分かかって渡る。屋我地島の海岸に8つの岩。目がハートグッド

 しょんぼり分岐点からワルミ大橋方面に右折。橋へ登る坂道の途中に「オランダ墓」の標識。ここで疲労感に襲われた。朝食から4時間半、走り始めてからでも3時間半が経っている。この暑さの中では疲れが出ない方がおかしい。道端に腰掛けてマドレーヌと煎餅を食べ、味噌汁の素を口にする。ケーキうっしっし

 どくろ?通りかかったお婆さんに「オランダ墓」のことを尋ねると、「オランダ人の墓だよ。ここから近いよ」との返事。今行かないと二度と見れないだろう。そう思って道を下った。500mほど行くと小さな港。案内板はないものの、その右側にそれらしい雰囲気の小道。途中にお墓のようなものがあるが説明はない。どんどん進むと、突端にそれらしい岩。目

 どくろぱー石製の見事な墓に眠っていたのは2人のフランス人水兵で、没年は1846年。首里の琉球王府と折衝後、幕末の日本に向かう途中に病没。琉球王朝時代は今帰仁間切(なきじんまぎり)の役人が、明治以降は付近の集落の人が墓の管理をしている由。「オランダ」は外国人の通称で、当時は「うらんだー」と発音していたことをようやく思い出す。やはり寄った甲斐があった。ダブルハートスマイル

 ヨットびっくりさらに驚いたのは墓の真向かい、瀬戸の向こうが運天港だったこと。そこは源為朝が立ち寄ったとの伝説があり、1609年に琉球王国を進攻するため薩摩藩の軍船が入った港であり、付近には古い墓が多いので有名な地であり、今は伊平屋島、伊是名島へのフェリー乗り場のある天然の良港。まさに奇遇とはこのことだ。オーケースマイル

 ヨット荒波当時八丈島へ流されていた為朝がわざわざ琉球を訪れる理由はないが、これは沖縄と日本は「同祖」であることを強調するための後世の作り話。アイヌの神であるオキクルミと源義経が同一人物であるとして、平取町のアイヌ人集落内に義経神社を建てたのと同根。琉球とアイヌを日本帝国に組み込むための方便だったとも言える。こうして明治新政府はアイヌから広大な土地を収奪し、三菱などへ払い下げたのだ。ノートえんぴつ<続く>





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Last updated  2011.11.09 15:56:50
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